ヨハネによる福音書 21章15~25節 桝田翔希牧師
戦争の影響は私たちの生活に悪いものとして現れますが、日本の経済は戦争によって豊かになったということも忘れてはいけません。戦後10年の神武景気は高度経済成長期の幕開けを告げましたが、この景気には朝鮮戦争による特需が背景にありました。戦後の豊かになった日本経済の恩恵を現在の私たちも受けていますが、その背後には戦争による利益による恩恵が含まれているのです。
ペトロはイエスが十字架にかけられたとき、自分も死刑になることや、処刑された人の関係者と思われるのが怖くなり、三度もイエスのことを知らないと言いました。私たちも同じような状況になれば、と考えるとペトロに共感する部分もあります。今日の物語でペトロはイエスと対話し、「わたしを愛しているか。」と三度問われています。これはペトロが三度イエスを否定したということを彷彿とさせる場面であり、それでペトロは「悲しくなった(17節)」とも考えられます。イエスはあらかじめペトロが裏切るということを知っていて、そしてイエスがペトロを許したという物語が聖書の長い文脈の中に置かれています。ペトロの裏切りは、十字架の前から後にわたって一貫してずっと聖書が語っていることであるということも言えます。
十字架刑は、社会の秩序を守るために見せしめ(警告)に、人間の遺体をモノとして晒すという暴力です。この十字架から逃げ出すとき、非人間化を生み出す「不正な『秩序』(パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学』p.74)」を黙認し加担することにもなるのではないでしょうか。ブラジルの教育学者であるパウロ・フレイレは、抑圧者によって虐げられ経済的な貧しさの中にあることを「非人間化」された状態であると説明しました。様々な貧しさや、権力者による不正や支配は私たちを非人間化していく働きなのです。ペトロは自らの命が脅かされる中で、不正な秩序に従い非人間化ともいえる姿に陥っています。ここでのイエスのペトロへのゆるしは、人間化への物語なのではないでしょうか。決して平等ではないこの社会の中で、戦争という「非人間化」の暴力の恩恵を時に私たちは受け、知らず知らずに沈黙のうちに加担することがあります。私たちも復活のイエスを見る時、そこには非人間化される中から、共に救い出される光があるのだと思います。
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