2024年3月3日説教要旨「迷いながら」
- masuda4422020
- 2024年3月2日
- 読了時間: 3分
ヨハネによる福音書 6章60~71節 桝田翔希牧師
本日選ばれている聖書箇所は「ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。『実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。』(60節)」という、角の立つ言葉で始まっています。この「弟子」とは十二弟子よりもっと広義の弟子たちであったようで、この後は十二弟子とイエスの対話が書かれています。では、広義の弟子たちはイエスのどのような発言に対してこのようなことを言っているのでしょうか。聖書通りに直前の個所を見ると52節ごろから特徴的になっていますが、聖餐式の原型になるような議論について講義の弟子たちが違和感をもって離反したということを考えることができます。ヨハネによる福音書は、読んだ人があまりにも聖餐式に関する記述がなさすぎると感じ、後から直接的な表現を書き加えているという指摘もあります。その考えに基づくと、52節からのように聖餐式にまつわる記事というのは、後から付け加えられたものではないかということになります。
実際の文章の筋道を考えると編集過程の問題からややこしいですが、もっと大枠で構成のされ方を見ると、示唆を与えられる箇所ではないかと思います。「ヨハネ福音書6章における『群衆』(前川裕「ヨハネ福音書6章における『群衆』」基督教研究、2000年)」という論文の中に6章の構成が紹介されており、22節から71節には4つの対話が納められており、それぞれイエスと対話の相手が変わっており、イエスとのやりとりの方法も変わっていることが指摘されていました。群衆や十二弟子はイエスを肯定的に捉えていますが、どちらもイエスと対話をしながら受け入れています。しかし、ユダヤ人や(広義の)弟子はイエスを受け入れることができずに否定し、今日の個所で広義の弟子の発言は「つぶやいている(61節)」と説明されています。イエスを否定するユダヤ人や広義の弟子の発言はどちらも一方的なものであったり、陰口のような、対話ではないものとして描かれています。対話のない一方的な論調の中で、イエスは十字架への道を進めさせられていったということが、今日のテキストの中から読み解くことができるのではないでしょうか。
今日の聖書箇所で十二弟子は肯定的に書かれながら、裏切者の存在が書かれるなど、どことなく暗い雰囲気があります。しかし、イエスの十字架を前に逃げ惑った弟子たちであっても、イースターやペンテコステの出来事を通じて、分断は取り去られていきました。私たちも様々な分断のある社会を生きていますが、対話を大切にしながらイエスが受け入れられていったという姿を覚えて、レントの時を過ごすものでありたいと思います。
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