ヨハネによる福音書 20章1~18節 桝田翔希牧師
イエスの復活を祝うイースターの日を迎えました。この日は春の時に行われ、冬から気温が暖かくなる時期ですので、気分も高まるものですが、イースターという行事にはどことなく暗い雰囲気が立ち込めています。復活の前には十字架があるのであり、それは残酷で暴力的な処刑であり、それを前に弟子たちは裏切り逃げ出していきました。このことは弟子たちの心に大きなうしろめたさを残したのではないかと思います。イースターは復活を祝い喜ぶ日ですが、十字架にかけられた金曜日と復活が起こった日曜日の間には「いつ終わるとも知れないくらい土曜日(榎本空『それで君の声はどこにあるんだ?』2022年、p.66)」があるのです。「十字架が復活に先立つのであり、その順序は決して逆さにしてはならない。(「福音と世界」2024年4月号、榎本空“アスペンの黒人神学者”、p.38)」のです。無印に祝うのではなく、苦しみと絶望を経たイースターを私たちは祝っているのです。
ヨハネによる福音書は、他の福音書とは違いマリアが一人で墓に赴いたとしますが、結末は同じで、そこに遺体はありませんでした。この記事でマリアは「イエスをどこに置いたのか」と3度も質問をします。これは私たちにも向けられた問いであり、私たちがこの社会に生きてどこにイエスを探すのかということでもあります。遺体を探してもなく、途方に暮れ涙の後に、マリアは振り返ったところでイエスと出会う(16節)のでした。
私たちはイースターを祝いながら、今の時代は復活までの物語になぞらえた時に何曜日と思うことができるでしょうか。苦しみの只中にある金曜日なのか、どうなるのかわからない不安と絶望の土曜日なのか、喜びにあふれる日曜日なのか、どのような状況を生きているでしょうか。苦しみだけではなく、絶望だけでもない、しかし、喜びだけでもない世の中を生きています。これと同じようにイースターは喜びだけに注目する比ではないと思うのです。しかし、絶望の中にふり返った場所にイエスがいたと、聖書は語るのです。この希望の中で人々は再び立ち上がっていったのです。
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