ヨハネによる福音書 12章1~8節 桝田翔希牧師
私たちが生活する中で、時間を考えてその日の予定を計画するということがありますが、必ずしもうまくいくわけではありません。教会で働いていると、時給という考え方でないということもありますが、教会以外の用事などもするわけですが、時給というような時間をお金に換算するという考え方でないように思います。ギリシャ語は「時」と訳される単語がいくつかあり、その中で「クロノス」と「カイロス」という単語は両者が対照的な意味として説明されます。「クロック」の語源ともなった「クロノス」は計測可能な「定量的時間(小川公代『ケアの論理とエンパワメント』2021年、p.54)」であり、「カイロス」という言葉は、「宿命あるいは神意によって配列され人間に決断的応答を要求する決定的時点(小川公代、2021年、p.54)」とも言えます。現代では合理的とも言えますが、クロノス的な時間感覚のように、多くのものが数値化されており、「近代科学が切り開いた認識、あるいは計算可能な時間感覚(小川公代、2021年)」が多くを占めています。逆に言えば確実性のないものや数値化できないものを排除する思考があります。
イエスの死の1週間ほど前にベタニヤで、イエスに高価な香油をかけたマリアという人がいました。これを見て弟子のユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。(5節)」と非難しました。しかしイエスは葬りの準備をしてくれたとして、ユダの発言を制止しました。聖書の中でこの香油は300デナリオンと見積もられており、現代で言えば300万円ほどの価値があったと言えます。私たちがこの場にいたらどう思ったでしょうか。300万円もあれば違う使い道があったのではないか、もう少し安い油があったのではないか、そのように思うように思います。ユダの非難はそれほど間違っていないようにも思われます。
この時、イエスは死んでいるわけでもないのに、埋葬の準備がされました。生前に死後のことがされるという「クロノス的時間の前後」がこの物語にあります。また、油をお金に換算して見積もるということには、まさしくクロノス的な感覚であり「近代科学が切り開いた認識、あるいは計算可能な感覚」があります。人間を単純な労働力として数値化し管理し、確実性や数値化できないものを排除していく思考です。「身体的、精神的経験が(…中略…)無力化される(小川公代、2021年、p.53)」、あるいは排除される様子があるのです。この物語は私たちにクロノス的思考の転換を問いかけているのではないでしょうか。私たちはイースターという出来事を、時を超えてまた今年も祝おうとしています。神の時間ということも覚えながら、数値化できない神の業の前に私たちは生きているのです。
Kommentare