ヨハネによる福音書 9章1~12節 桝田翔希牧師
シロアムという場所でイエスは目の見えない病を癒すという奇跡を行いました。この出来事は仮庵祭の時期であったようなので、イエスが殺される前の年の出来事でありました。シロアムという場所は旧約聖書にも登場し、有名な場所であったようですが、現在は詳しい場所がわからず、エルサレム城壁の南端あたりと言われています。ここで目の見えない人とイエスの一行が出会ったのでした。弟子は「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。(2節)」と質問し、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。(3節)」と答えたのでした。
病気にかかるということの原因は様々ですが、現代の感覚で言えば弟子のような考えをすることはあまりないと思います。生活習慣や細菌/ウイルス、遺伝子などの理由で病気が起こるということが言われているので、「先祖の祟りだ」ということを言うこともありますが、そこまで本気にしていることではないと思います。しかし、イエスの生きた時代はそんな医学知識もなかったので、弟子のような考えというのは一般的であったのでしょう。そのような風潮の中でされたこのイエスの答えは革新的であったことでしょうし、医学の知識がある程度ある私たちの感覚にも合致する返答です。
しかし、よく考えると、ここでの弟子の質問も失礼なものですが、イエスの返答も場合によってはあまりよくないようにも思わされます。場合によりますが、私たちが日常生活で病気に悩む人に出会ったとき、同じような言葉をかけることができるでしょうか。ここでイエスは何を伝えようとしていたのでしょうか。ある註解書はこの箇所でイエスが説明しているのは、病の「原因」ではなく、神の「目的/意味」であるとしていました。弟子が問うたのは病の原因でしたが、イエスの答えは原因ではなかったのです。私たちは様々な病の原因を知りつつ、原因がよくわからないものもあります。原因ばかりを気にするのではなく、私たちが今この場所で神の目的にどう応答することができるのか、ということを投げかける意味でイエスは神の目的を語ったのではないでしょうか。
アメリカで人種問題やマイノリティに関する心理学を研究しているD. W. スーという人は白人から黒人に対してなされる差別の要因を「先祖からのバイアス(D. W. スー『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション』2020年、p.411)」とも説明していました。差別の要因について、すべてがこのような言葉で説明できるということではなく、ごく一面的な説明の一つということになりますが、私たちも長い歴史やその中ではぐくまれてきた文化のなかで良くも悪くも様々な影響を受けて生きています。医学的な遺伝による影響だけで私たちが形作られるのではなく、そのような環境によるものや「先祖からのバイアス」というものにも影響を受けています。弟子たちが問うたように「先祖のせいで不利益なことが起こる」ということについて、科学的に生きているとあまりそのように思うこともありません。不幸が続くときにそのようなことをふと考えることもないわけではないですが、そこまで深刻になるものではないと思います。しかし、思想的なことで言えば「先祖」が長く持ってきた偏見などは、今も私たちの中に続き、社会の中で様々なそごうを生む原因となっています。私たちの身に神の業が現れるということを信じつつ、それを覆い隠すような「先祖からのバイアス」を見つめながらこのレントの時を過ごしたいと思います。
Comments