ヨハネによる福音書 1章35~51節 桝田翔希牧師
今年のお正月は実家に帰ることにしました。この数年はコロナの影響があり、なかなか正月に帰省するというのも気が進まないものでしたが、最近はだいぶ雰囲気も緩やかになってきたので、帰ることにしました。私が生まれ育ったのは、滋賀県の竜王町という場所ですが、最寄りの駅までは徒歩40分、買い物に行こうとしても徒歩圏内にはなく車がないと不便な場所です。田んぼや山ばかりの場所で、田舎な場所なのですが少し昔はそんな田舎で育ったということがあまり気に入っていませんでした。しかし、久しぶりに帰り車で走っている時に窓を開けると、山のにおいがして懐かしい気分になりました。小さい頃からそのような環境に囲まれて育ち、体は覚えているのだと思います。30歳を過ぎてようやく自分の生まれ育った場所を受け入れることができ始めました。
ヨハネによる福音書1章35節から始まる箇所では、イエスが次々と5人を弟子にするという場面です。ここに登場する弟子は、他の箇所ではあまり登場しない人物も含まれていますがフィリポ、アンデレ、ペトロは「ベトサイダ(恐らくガリラヤ湖の北東部でナザレからガリラヤ湖の対岸)」の出身であったと説明されています。この物語の場所がどこであるのか、正確にはわかりませんが、この数日前にはベタニア(死海の北部)にイエスがいたとされていますので、ベトサイダやナザレからは遠く離れた場所でありました。イエスという人が来たと聞いたナタナエルは「ナザレからよいものが出るだろうか」と、出身地によって他者を評価しようとしました。ベトサイダは現在で言うとどこにあったのか正確な位置はわからず、旧約聖書でも登場しない地名です。誰も注目せず、忘れられていった土地でした。また、イエスが不信仰を叱るという場面もありネガティブなイメージが重ねられた土地です。土地に対する固定概念が、ナザレにもベトサイダにもかけられていました。
ナタナエルは土地に対する差別的な考えを持っていましたが、フィリポ、アンデレ、ペトロからすれば、いつ自分たちの故郷を馬鹿にされるのかと気が気ではなかったように思います。当時のイスラエルの世界は貧富の差が激しく、中流階級は存在せず10%の富裕層が支配し、他の90%は使い捨て人材のように扱われました。当時の田舎はなんとか暮らしていけるというよりかは、都会(中心)からすればどうでもよい土地であったのです。田舎を馬鹿にするナタナエルでしたが、実は信仰深いことをイエスは見ていました。信仰と世俗の差別心は人間の中に同時に存在するのです。しかし、イエスはナザレから現れ、ベトサイダから流れ着いた人たちを弟子に招きました。都会から離れた場所で生まれていても、失われない人間性をイエスは招いたのです。
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