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2024年1月14日説教要旨「新しい洗礼」

masuda4422020

ヨハネによる福音書 1章29~34節 桝田翔希牧師


震災や戦争の報道を見ながら、人間の人生は時として全く意図しない形で変えられていくということを痛感します。そして阪神淡路大震災が起こった1月17日からもうすぐ29年の時を数えようとしています。あの日唐突に変わった人生の延長線上が今にも続いていることを覚えたいと思います。キリスト教における洗礼は「人生の転換」ともいえるものではないでしょうか。このことについては神から志が与えられるという意味では、人間の石に関係なくされるものですが、神に応答するという意味では自発的な転換でもあります。

聖書の中で洗礼とはどのような意味で書かれているのか考えてみますと、固定化された洗礼イメージが書かれているというよりかは「洗礼進学のひとつの標準形式(…中略…)の体系的論述といったものではなく(P. F. ブラッドショー『初期キリスト教の礼拝 その概念と実践』2006年、p.13)」それぞれの記者が異なったイメージや体験をもって何かを伝えようとしていると言えます。ヨハネから洗礼を受けたということは福音書の中で複数回書かれていながら、イエスと洗礼ということはそこまで密接には結び付いて書かれていない印象があります。しかし福音書以外の新約聖書、すなわち実際に生きていたイエスの後の時代の箇所では、洗礼という言葉が散見されるので恐らくキリスト教会では早い段階から洗礼というものが執り行われていたのであろうということは考えられます。人間として生きたイエスは言葉をもって様々なことを残していきました。しかしそこで残されたものは固定的な教理ではなかったのです。イエスが残したのは「人生を変えてしまうような経験(P. F. ブラッドショー『初期キリスト教の礼拝 その概念と実践』2006年、p.13)」であり、人々はその経験を何とか言い表そうとした結果が聖書には書かれているのではないでしょうか。キング牧師は「デモは何が問題なのかをはっきりさせるために必要なのだ()」と語りました。しかしデモは警官隊によっても妨害され、警察犬だけではなく放水車で水をかけられるということまであったのだそうです。このことについては、キリスト者は浸礼や滴礼を受けており、キリスト者にとって水は友達のようなものであり、「水でわれわれを止めることなどできない(梶原寿『私には夢がある M. L. キング説教・講演集』2008年、p.234)」としました。このメッセージの中で、デモと洗礼はそこまで強く結びつけて語られていることではないと思いますが、私は洗礼というもの、言い換えるとキリスト教と出会ったときの瞬間、生き方が変わった瞬間は、デモをするような私たちがこの世に生きて何が問題であるのか見つめるということと非常に強く結びつくのではないかと思うのです。

 
 
 

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