2024年12月29日説教要旨「難民の記憶」
- masuda4422020
- 1月11日
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マタイによる福音書 2章1~12節 桝田翔希牧師
教会暦はクリスマス礼拝を経て待降節から降誕節へと変わりました。クリスマス礼拝直後の聖書箇所には誕生後のイエスを東方の学者が訪ねるという場面が例年選ばれています。旧約聖書の伝統では、他の宗教という含みのある占星術は忌避されるものの一つでした。導きの星は、占星術を忌避する立場で解釈すれば不確かなもので、博士たちの行動も不確かなものであると読み解くことが出来ます。そこから「幼子のいる場所の上に止まった(9節)」ということは、不確かなものがついに明らかになったということです。博士たちは待望するものから、救いの成就の目撃者となったのです。待降節から降誕節への変化は、博士たちが体験したことを私たちも追体験する時期でもあります。
マタイによる福音書がなぜこのような誕生物語の記録をしたのかというと、執筆の意図としてイエスとモーセを重ね合わせて説明しようとしている傾向が影響しています。これまでもたびたびそのような傾向がありましたが、マタイによる福音書において誕生物語に続いてヘロデの虐殺から逃れてエジプトに逃げて帰ってくるというものは、モーセの出エジプトと重ねあわそうとしているという意図があります。恐らく出エジプトの物語は、聖書に書いてある通りに当時のすべてのイスラエル人が経験したというわけではなく、一部の人々の記憶が核になっていると考えられます。聖書には60万人が脱出したとありますが、その規模の大移動があれば痕跡が残るはずです。
一部の人が経験した難民の記憶を、全体の物語として記憶しようとすることは普通されないことではないでしょうか。難民という立場は、多くの場合、逃げた先でマイノリティの経験を強いられます。現代で言えば制度が難民を想定していなかったり、大変な手続きがあったり、言語や文化の壁もあります。社会の中で忘れられていく痛みであるとも言えます。そのような難民の記憶を、聖書はつぶさに記録し後の時代へと伝えようとしているのです。イエスの誕生物語に触れる時、私たちは難民の記憶に思いをはせるものへと導かれているのです。
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