2024年12月22日説教要旨「ここに希望がある」
- masuda4422020
- 1月11日
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マタイによる福音書 1章18~23節 桝田翔希牧師
イエスの誕生を祝うクリスマスの季節となりました。いつもであればこの時期、ベツレヘムには多くの観光客が来るそうですが、パレスチナ自治区のヨルダン川西岸地区ということなのか、戦禍を避けて閑散としているそうです。いつも飾られていたクリスマスツリーも、パレスチナに対するこのような状況では飾れなかったそうです。昨年のクリスマスにベツレヘムの福音ルーテル教会では「もしイエスが今日生まれるとしたら、ガザの瓦礫の下で生まれることでしょう。人が誇りや豊かさを讃える中、イエスは瓦礫の下にいます(『福音と世界 6月号』2024年、ムンター・イサーク「瓦礫の中のイエス」p.39)」と語られたそうです。ベツレヘムとは私たちにとって、地理的にイエスが生まれた場所でありながら、「闘争と希望の人間のドラマの世界として、愛と憎しみが凌ぎを削る共同体として、ナザレ(やベツレヘム)は、他の人間共同体と何ら違いはない(C. S. ソン『イエス 十字架につけられた民衆』1995年、p.44)」のです。ベツレヘムに私たちは何を見出すことができるでしょうか。
マタイによる福音書1節に「系図(ヘブライ語でトーレドート)」という言葉がありますが、これは18節の「誕生の次第」と同じ単語が使われています。そしてこのギリシャ語に対応するヘブライ語は旧約聖書で何度も使われています。マタイは旧約聖書から続く延々とした命のつながりの中にイエスを置いているのです。そのような壮大な物語の中に、ヨセフや東方の賢者が登場しています。これらの人物はクリスマスの物語に出てくるから有名ですが、他の箇所ではほとんど登場しません。一発屋のような存在です。しかしこの人たちは、この世的には意味の分からない神の導きに身をゆだねたのでした。そしてこの人たちは、「キリスト的な力」が働いていたのです。
イエス・キリストは唯一の存在ですが、神学者のヘイワードは受肉ということについて、「ナザレのイエスただひとりに起こった出来事だと考え(工藤万里江『クィア神学の挑戦 クィア、フェミニズム、キリスト教』2022年、p.81)」ず、キリストという称号もイエスという個人に使われているのではなく、「『力』に付される形容詞(同上)」であると説明します。「『キリスト的な力』(…中略…)はイエスが体現した力でもあり、同時に私たちひとりひとりが」体現しうる力(同上)」なのです。そういった意味で、イエスの生命のつながり(トーレドート)に私たちもあるのであって、まさに「キリスト的な力」を表しうる存在なのです。クリスマスの物語で、キリスト的な力をその身で表したヨセフや博士たちと同じなのです。その力と共に「正義を求める働きに参与するよう招かれている(同上、p.85)」のです。ベツレヘムや受肉という出来事は、場所や時間を超えて世界中を包んでいるのです。
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