2024年12月15日説教要旨「神が人の形として」
- masuda4422020
- 1月11日
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マタイによる福音書 11章2~19節 桝田翔希牧師
街のあちこちでクリスマスの飾りを見るようになりましたが、「商業ベース」と批判されることもあります。きらびやかな飾りがされますが、クリスマスとはもともと宗教的な行事ですので、飾りにも意味があるものがあります。モールもその一つで、諸説ありますがヘロデの追ってから逃げて洞窟に隠れたイエスの家族は、蜘蛛が洞窟の入り口に巣を作り、それを見た追手は洞窟に人の出入りがないとして捕まらなかったという話があります。翌朝、蜘蛛の巣は朝露が付ききらきら光っていたというところから、クリスマスモールはそれを指しているということが言われます。しかし、商業ベースのクリスマスではそんな暖かな物語も忘れられ華やかさが求められるということでしょうか。私たちはクリスマスに何を求めているのでしょうか。
牢屋に捕まっていた洗礼者ヨハネは、弟子をイエスの元に遣わして「来るべき方(救い主)」かどうか確認します。洗礼者ヨハネは福音書の中ではイエスの先駆者として書かれていますが、実際には初期キリスト教会との軋轢があったことも予想されます。洗礼者ヨハネは自分より後にさらにすごい人が来ると預言しますが、その人はどのようなイメージで語られていたかというと「火」という言葉で表されており、非常に激しくまた力強いものであったと考えられます。そのような意識の中で、病を癒したり、また他の色々なイエスの行動を洗礼者ヨハネが知るうちに、本当にイエスは救い主なのかという疑問が出てきていたのではないでしょうか。自分の思っている救い主のイメージとイエスの姿が合わなくなってきたのではないでしょうか。
台湾の神学者C. S. ソンは「金冠のイエス」という戯曲をもとに、金の冠がかぶせられたイエスの像は、「金を崇拝する人々から尊敬を集めている(C. S. ソン『イエス 十字架につけられた民衆』1995年、p.26)」のであって、イエスの像がイエスでなく、「教理体系に押し込められた空論的イエス」であり「人間の悲劇と切望に満ちているアジアの歴史の意味を汲み取ることはできない(同上、p.35)」と語ります。きらびやかなクリスマスの雰囲気の中で、私たちは人として産まれた神をどのように拝もうとしているのでしょうか。
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