ヨハネによる福音書 11章45~54節 桝田翔希牧師
コロナがはやり始めた2020年に特別定額給付金10万円というものがありました。個人的にはありがたいことに、コロナの影響で収入が減ったということはなかったので、もらえるならもらっておこうという感覚でした。しかし、あの給付金で実際に命がつながった人たちもたくさんいたと思います。私たちが生活の中で持つミクロ的な視点と、社会全体を考えるマクロ的な視点には違いがあります。
ラザロを生き返らせた後のことを聖書はほとんど書かず、この出来事を知り、イエスを殺そうという決意をファリサイ派や祭司長が固める場面へと変わります。編集の意図としては奇跡そのもののすばらしさではなく、この出来事が十字架への決定打であったことを伝えようとしているようです。なぜイエスが殺されようとするのか、「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」と説明されています。一つの命ではなく、全体を守るためにイエスを殺すということです。もっともらしい論理かもしれません。ヨハネによる福音書は紀元後80年から90年代に書かれたと言われています。この直前に歴史的に大きな出来事が起こっており、70年にユダヤ戦争が起こり、エルサレムはローマ軍によって破壊され住民は殺されるか奴隷として売られました。まさに「神殿も国民も滅ぼしてしま」ったのです。エルサレム陥落はイエスが死んでも、初期キリスト教会が迫害されても起こったのです。イスラエル全体を守るためにイエスを殺すということは、歴史的に見ても間違いで、この発言も自分たちの地位を守るためであったと考えられます。政治家目線(マクロ的な視点)でイスラエルのことを考えているが、一般市民のお前に何がわかるのか、と言わんばかりの発言なのです。
私たちは知識として、地球が回っているという「地動説」を知っています。しかし本当の実感は天が動き、地は平らという「天動説的な地平の下で生きて(浜田寿美男『「発達」を問うー今昔の対話 制度化の罠を超えるためにー』2023年、p.3)」います。マクロ的な視点で物事を説明することは大切です。「身体でもって生きる現象をその渦中から生き、たがいに理解し世界を広げていく(同上、p.4)」ということが実際の姿です。神の視点ではなく「わたしの視点」を生きているのです。イエスの失われた命は、神でありながら人間であったひとつの命でありました。マクロ的な視点からでなく、私たち個人個人が大切な「1」であるということから、大切なことは少しずつ広がっていくのではないでしょうか。
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