ルカによる福音書 14章7~14節 桝田翔希牧師
最近ネットで動画を見ていて、自分が中高生の時代に流行したお笑い番組のキャラクターが出てきました。男性の芸人が女性に扮するものや、同性愛を揶揄した芸でした。最近はそのような芸をテレビでは見なくなりました。日本の人権感覚も少しは変わったということだと思います。「ブラックフェイス論争」と呼ばれるものがあり、ブラックフェイスとは「黒人以外の演者が黒人を演じるために施す舞台化粧、それに起因する演者および演目」のことを指すもので、アメリカで流行した時代がありましたが、公民権運動により終焉を迎えました。じかし、日本では数年前に芸人が黒人に扮するというものがテレビで放映され論争が起こりました。「笑い」は「ギャグと差別の間を行き来し(キムジヘ『差別はたいてい悪意のない人がする 見えない排除に気づくための10章』2021年、p.89)」てきたということが言えるのではないでしょうか。
議員のファリサイ派の食事会に招かれたイエスは、上席ではなく末席に座るように、とのたとえ話をしました。このような言い回しは旧約の時代でも初期キリスト教会の時代でもよくされたことのようで、「後の者が先になる(マタイ20章)」のようなものがよく見受けられます。日常生活で考えますと、席をずらされるということは恥ずかしいことで、処世術として末席に座るというのは役に立つ教えかもしれません。弟子たちも誰が一番偉いかという議論をしてイエスに叱られたことがありました。しかし、ここでイエスが語っているのはエチケットや処世術という次元の話ではなく、ファリサイ派の人たちの態度を見てのことであり、もっと根本的な問いかけでありました。律法主義という考えの中で、羊飼いなど律法を守ることのできない人は蔑まれ、エリートは自分こそが神の国に近いというおごり高ぶりの中にいました。イエスが批判したのはそのような社会の残酷な構造であったのではないでしょうか。
私たちの中にも、優越感や排除という気持ちがあるのではないでしょうか。『リヴァイアサン』の著者であるトマス・ホッブズは、笑いに関する考察の中で「人は他人と比べて自分のほうが優れていると思うとき、プライドが高まり、気分が良くなって笑うようになる(キムジヘ『差別はたいてい悪意のない人がする 見えない排除に気づくための10章』2021年、p.92)」と語りました。テレビなどのお笑いを見るとき、なぜそれが面白いのかということを考えると、中には「差別とギャグ」の境界線を行き来するようなものがあり、自分が優越感を持つ中で笑っているということが少なくないのではないかと思います。「なぜ」笑っているのかという問いかけは、「誰」が笑っているのかという問いかけでもあります(キムジヘ、同上)。「差別とギャグ」を行き来しながら、私たちの中にも上席に座ろうという思いが見え隠れしているのです。
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