ルカによる福音書 15章11~32節 桝田翔希牧師
先日、イベントで残った1リットルほどのコーヒーをもらって帰ってきて、半分は翌日の日曜日の教会で出す用のゼリーにしたのですが、半分は残ってしまいました。どうしようかと思っているうちに、夜に仕事をしながらだいぶ飲んでしまい、夜寝れなくなってしまいました。たかだかコーヒーを飲んだだけで眠れなくなるという、人体の神秘を知りました。寝れなくなる時はほかにもあると思います。イライラしたり、辛かったり、目には見えない心のことで、時に私たちは眠れなくなってしまいます。感情と体のつながりはすごいな、と思わされます。
本日の聖書箇所は放蕩息子のたとえ話と呼ばれる箇所で、聖書の物語としては有名な箇所です。ここでは様々なメッセージを読み取ることができ、何があっても受け入れる神の愛や、放蕩してしまう人間の愚かさ、兄のようにひがんでしまう人間の姿などがあります。ここで弟は親に遺産を生前に分けてほしいと頼み、お金だけではなく換金が必要なものまで受け継ぎました。お金のように無機質なものだけではなく、土地や思い出の品など有機的なものもあったようですが、弟はすぐに換金して無機質なお金を得ます。当初は豪遊しますが、そこをつき、運悪く飢饉にも襲われ食うのに困るようになりました。そして父親のところに雇人でもいいから帰ろうと決心します。そして、親は喜びましたがそれを見た兄は怒りました。
この物語では感情の起伏がダイナミックに描かれています。お金で何とかなるというおごり高ぶり、食べるものもなくなってしまったという後悔、子どもが帰ってきたという喜び、それを妬む兄。そのような感情の起伏で、どこに神が働いたのかというと悔い改めるということでした。辛さや怒りがあったから、神の祝福を受けることができたのではないのです。辛いから、自信があるから神を知ることができたのではないのです。私たちは日々の生活の中で様々な感情の起伏を経験します。どこに神がおられるのか、放蕩息子の物語は悔い改めにこそ神が働くと語っているのです。
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