エフェソの信徒への手紙 2章11~23節 桝田翔希牧師
8月最初の日曜日は【平和聖日】となっていますが、今年は8月6日にこの日を迎えることになりました。78年前、広島に原子爆弾が投下された日です。「第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白(教団の戦争責任告白)」というものがありますが、日本基督教団は戦争と無関係であったわけではなく、積極的に協力しました。この告白がされた背景には、1944年3月26日に「日本基督教団より大東亜共栄圏にある基督教徒に送る書翰」が発出されたということがあります。この書簡は、日本が大東亜共栄圏としてアジア諸国を植民地支配しようとした思想に賛成する中で出されたものでした。武力による植民地支配が、大東亜共栄圏という言葉で正当化され、教団もこれに加担したのです。逆に反戦を教団の中で訴えた人たちは、組織の力でなかったことにされていきました。組織の力が侵略や思想統制を正当化したのです。教団は国家の戦争に都合のいい組織へと変わっていき、戦闘機を奉献するまでになりました。
エフェソの信徒への手紙が書かれた前の時代は、異邦人伝道についての論争が参加になされました。割礼を受けていないと認められないユダヤ教から派生したキリスト教にとって、割礼を受けていない異邦人が入信できるかどうかということが盛んに議論されました。しかし、エフェソの信徒への手紙が書かれた時期には、この論争はいったん落ち着き、共同体の中に異邦人も多く加わっていたということを読み解くことができます。「隔たり」という言葉が出てきますが、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者に隔たりがあったのでしょうか。それでもキリストにあって一つになろうと呼びかけがされます。異邦人が洗礼を受けることが半ば当たり前になっている現代にとって、あまり理解できる言葉ではないのかもしれません。当時にあっては、今は仲良くしている、けれど、律法を盾に異邦人のあの人を差別してしまった、もしくは、あの人に律法を理由に差別された、と苦い記憶が生々しく残っていたのかもしれません。律法を根拠に隔たりが正当化された時代があったのです。
現代のキリスト教の歴史を見るとき、後になって考えればひどい事柄が、正当化されていくというものを多く見ることができます。大東亜共栄圏としてアジアを植民地支配することは正当化されましたし、教団もこれに協力しました。時として悪事は大義名分やヒエラルキーで覆い隠され、キリスト教も無関係ではないのです。命より経済が優先される世の中であるとまざまざと見せつけられる思いです。騙されてはいけないのです。
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