ルカによる福音書 14章1~6節 桝田翔希牧師
8月12日から15日にかけて開催される釜ヶ崎夏祭りに参加しようと予定していました。4日間の予定を開けていましたが、台風により12日と13日しか開催されませんでした。しかも、13日は夜に通り雨があり、びしょ濡れになってしまいました。雨上がりの夜空の下で釜ヶ崎を歩いていると、数年前に釜ヶ崎の夜回りに参加した時のことを思い出しました。その日も激しい雨が降っていて、屋根のある商店街でも水たまりができていました。商店街を歩いていると、先を歩いていたグループが止まって誰かを囲んでいました。野宿している人がいて大勢で囲むということはあまりしないので、嫌な予感がして直視しないようにしていました。しかし、通りすがる時に少し見てしまいました。おそらく野宿者ではない酔っ払いと思わしき人が倒れており、頭を打ったのか大量に出血していました。蒸した空気の商店街、水たまりは真っ赤に染まっていました。もし自分が最初に発見していたらどうしただろうと思いました。すぐに駆け寄って救急車は呼べたのか。おそらく立ちすくんでしまったと思います。見ず知らずの人を助けようとするとき、なぜか体が動かない、そのようなときはないでしょうか。
「安息日に水腫の人を癒す」と題された聖書箇所では、先週に引き続き労働が禁止される安息日に、イエスの癒しの業が行われます。イエスが律法違反者であるという証拠を集めようとしたのか、議員でもあったファリサイ派の人がイエスを食事会に招き律法学者も同席し、水腫を患う人もいました。想像ですが水腫を患う人はイエスを策略にはめるため、わざわざ連れてこられたのではないかと思います。つらい思いをしている病人が、思惑のために利用されているのです。癒しを行った後、イエスは「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。(5節)」と問います。これに誰も反論できませんでした。しかし、水腫を患う人はほおっておけたのです。他人はどうでもよいのです。
安息日を天地創造をもとに考えると、創造を終えた7日目、神が「休息」をとった日と解釈できます。一方で、安息日を守り続けた人々にとっては労働の「中断」とも解釈できるのではないでしょうか。労働の中ではどうしても様々な思惑が生まれ、富や地位のために策略が起こります。ファリサイ派の人は議員にまで上り詰めました。イエスを裁こうとする思惑は、ここで中断されているのです。一見して神に忠実に使えるように映るファリサイ派の人々も恣意的な思惑がありました。そのような思いが安息日に打ち砕かれるのです。私たちも日曜日に様々な用事を中断して集っています。それと同時に、様々な思いが打ち砕かれ、私たちも新たに召し出されているのです。
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