ルカによる福音書 7章11~17節 桝田翔希牧師
イエスがたとえ話で種をまくと100倍になるということを話していますが、当時の農業でつかわれた品種は実際のところどれくらいの収穫率があったのか気になって、古代種のスペルト小麦を蒔いてみました。牧師館の前で育てているのですが、夏の日差しを受けてすくすくと育っていて、来ていると心が和みます。宮崎駿の漫画で『シュナの旅』という作品では、傷ついた主人公が麦の成長と共に健康を取り戻すという話があるのですが、それを思い出しました。自然から癒しを受けることがあるのだなぁと思うのです。
「やもめの息子を生き返らせる」との箇所では、連れ合いを失いさらには一人息子まで失った女性が登場しています。ここでイエスは「憐れに思い」、息子を生き返らせたのでした。「憐れに思い」とはスプランクニゾマイというギリシャ語で、「断腸の思い」というように訳されたりもしますが、激しい感情の動きを表しています。この単語はギリシャ語圏で神に使うものではなかったようで、人間に心を動かされるような存在は神とされなかったのだそうです。しかしイエスはスプランクニゾマイだったのです。だからこそ、頼まれることもなく、女性の祈りもないままに癒しの奇跡が起こりました。既存のギリシャの神とは対照的なイエスの姿があります。
肉体としてのイエスに会うことができない現代の私たちは、死者の復活を目の当たりにすることはありません。悲しみの中にあって死者の蘇りを望むときもありますが、なかなかそうはならないのです。また、イエスが蘇らせた人たちもいずれかは天寿を全うして死んでいったことが考えられます。不死の命を授けるというのがイエスの役割ではなく、悲しみを癒すということが中心なのではないでしょうか。私たちはイエスに連なる教会という場で生活をしていますが、ここが癒しの場であるということを思います。私たちもイエスに連なるものとして、心を動かしながら癒しの業に加わっているのです。
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