ルカによる福音書 9章51~62節 桝田翔希牧師
7月最後の主日を迎えましたが、8月は平和を考える一か月となっていると思います。世界を見渡すとウクライナをはじめミャンマーやアフガニスタンなどで戦争が起こっており、平和の状態とはとても言えない状況です。沖縄の伊江島で反戦の活動をされた阿波根昌鴻さんは「勉強することは大事な闘い」であると語られました。米軍の人間が伊江島の土地を取り上げて基地を建設しようとしたとき、日本の文化や歴史をよく調べてきたのだそうです。そのような経験の中で阿波根昌鴻さんは「勉強することが闘いの大事な一部であることを確信(阿波根昌鴻『命こそ宝 沖縄反戦の心』1992年、p.181)」したのだそうです。私たちも平和のために学び続けるという闘いが必要なのではないかと思います。
さて今回の聖書箇所は「サマリア人から歓迎されない」という箇所です。当時、ユダヤ人とイスラエル人の関係性はかなり悪化しており、元々は同じ神を信仰していましたが、サマリアでは独自の祭儀が行われ、敵対関係となりました。サマリア人によってエルサレム神殿に人骨がばらまかれるという宗教テロともいえる行為がされたり、エルサレムに行くためにサマリアの集落を通った人が殺されるということもありました。イエスが拒否されるということも不思議ではありません。エルサレムに行く近道を邪魔されたらどのような気持ちになるでしょうか。弟子たちのように「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか(54節)」と言ってしまうような気もします。
イエスの一行にとって実害が生じる関係性がユダヤ人とサマリア人の間にはありました。しかし、イエスは積極的にサマリア人を例にたとえ話をし、病の中にあるサマリア人を癒しました。恨みを吹っ掛けることはなかったのです。阿波根昌鴻さんは自らの闘いを「非暴力直接行動」ではなく「何より相手のことを考える闘い(阿波根昌鴻『命こそ宝 沖縄反戦の心』1992年、p.186)」であるといわれました。喧嘩をしても何も生まれない、相手の立場で考えなければ何も生まれないと語られました。「伊江島式の農民の闘い方」です。怒りの中で人間は容易に分断されていきます。しかし、相手のことを考えて学ぼうとするところに平和の糸口があるのではないでしょうか。
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