ルカによる福音書 14章15~24節 桝田翔希牧師
子どもの日・花の日を迎え、尼崎教会では関係施設である「みどり野保育園」の創立記念も覚えようとしています。保育園では毎週金曜に合同礼拝が行われており、昨年度からメッセージを私が担当しているのですが、いつも準備に苦労しています。絵本を使って聖書のメッセージを解釈することが多いのですが、先日『かえるのつなひき』という絵本に出会いました。この絵本は沖縄生まれの版画家である儀間比呂志(ぎまひろし)さんの作品で、ところどころに沖縄の言葉が使われ、リズミカルな絵本となっています。かえるがだい活躍する物語なのですが、最後は「とう うっさ」と締めくくられており、注で「はい これだけ」と訳が付けられています。少々、唐突に物語が終わるような気もしたのですが、「めでたし、めでたし」というような意味なのかなと思います。私たちは聖書を読みながら「めでたし、めでたし」と思うことがあるでしょうか。
今回の箇所はルカによる福音書において、神の国の食事に関するたとえ話が語られている箇所です。ある主人が盛大な食事会を企画しており、準備ができたのであらかじめ招待していた人たちに僕を送って食事会の始まりを知らせます。しかし、誘われていた人々は一斉に断りました。たとえ話として三つの断りの理由が書かれており、「畑を買った・牛を買った・結婚したばかり」となっています。もっともらしい理由にも思えますが、あらかじめ招待された時には予想できそうな理由です。また、聖書学者の山口里子さんはこれらの理由が「ウソとわかるふざけた言いわけ(山口里子『イエスの譬え話2』2017年、p.101)」と指摘しています。畑を買うならばあらかじめ土地を調べることでしょうし、牛でも同様です。また当時の結婚というのは非常に長いプロセスを経たことでしょうし、たとえ話ですから一般的な状況を仮定しているはずであり、結婚したから食事会に行けないなど、誘われた時にすでに分かっている話です。ここで主人は、食事会をやめるのではなく、僕に「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。(21節)」と命令したのでした。
体の不自由を抱えた人たちにとって、当時の世界は今以上に生きづらさを抱いたことでしょう。食べるにも困ったことでしょう。主人の当初の意図とは違いますが、喜びにあふれた食事会になったことでしょう。「めでたし、めでたし(同上)」です。私たちも当初の意図とは違う結果をよく経験します。どうすれば「めでたし、めでたし」ということができるのでしょうか。社会の中の辛さに注目して、歩み続けるところに、神の国の食卓の写しがあると信じたいと思います。そこで神の国を思い浮かべて、「とう うっさ」と言いたいと思うのです。「はい、これだけ」。
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