ヨハネによる福音書 15章12~17節 桝田翔希牧師
イースターからペンテコステまでの期間も、折り返しの時を迎えました。ペンテコステの出来事は言葉や民族の違いを越えて、福音の下に共に歩みだすという平和な姿が描かれていますが、今日にあってはそれと真逆の戦争の絶えない時代を私たちは生きています。ウクライナで起こっている戦争は1年以上続いています。戦争はやめてほしいと思うものですが、戦争が起こると「死」に対する考えが変わるように思います。戦争で死んだ人が英雄視されるということがしばし起こります。日本では第一次上海事変で、日本軍が突撃するための道を自爆して開いた3人が「爆弾三勇士」と呼ばれ英雄視されました。新聞各社が報道し、軍神とまで讃え、映画や歌舞伎の題材にもなったのだそうです。人が死ぬということが英雄視される時、悲しむことが許されない状況が強要されていきます。
ヨハネによる福音書で「イエスはまことのぶどうの木」というたとえ話に続いて、ヨハネ的に「愛」を解いた物語が続いています。ここには、イエスが人々を奴隷ではなく友である、と宣言する箇所があります。奴隷は主人の考えを知る必要はなく、ただ言い渡された仕事をするという主従関係ですが、教会にそのようなことはないのです。そのような関係性の中で、私たち一人ひとりは神に「任命(16節)」され、立たされている存在なのです。そしてそのような中で「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(13節)」という印象的な言葉が語られています。
迫害や殉教が現実的であった時代に、このような言葉は大きな励ましになったかもしれません。しかし、命は等価交換できるものではなく、一つ一つが代えることのできない存在です。また、日本にあって自決が強要された時代を経た私たちは、「自分の命を捨てる」ということを無批判に用いることはできないものではないでしょうか。ここで「捨てる」に充てられているギリシャ語は、「犠牲にする」という意味以外に様々な解釈がされる単語です。賭けるとか(イエスを墓に)横たえる(マタイ16:6)とも訳される言葉です。翻訳によっては「捧げる(田川建三『新約聖書 本文の訳』2019年)」とするものもあります。また、命という単語は「魂」とも翻訳できますが、「Life」のように生活や人生と解釈することもできるのではないでしょうか。そう考えると、ここで求められているのは、本当に命を捨てることだけではなく、誰かのために生活を捧げたり、心を置いたり、人生を賭ける、というようにも解釈できるのではないでしょうか。知らず知らずのうちに、世間では命が美談の中で語られています。イエスがどのように他者と関わったのか、今一度思い起こしながらペンテコステまでの時を過ごしたいと思います。
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