ルカによる福音書 11章1~13節 桝田翔希牧師
5月23日は日比谷野外音楽堂で開催された、「狭山事件の再審を求める市民集会」に参加しました。報道によると1200人が集結したそうですが、中にはキリスト教をはじめとする「宗教者」も含まれています。教団や教派、宗教を超えて狭山事件の再審が訴えられました。エキュメニカルという言葉をよく聞きますが、改めて考えるとこれほど多くの宗教者が集まる集会というのは珍しいように思います。いろいろな宗教が、自分たちの教義の中で狭山差別裁判の不当性を語ることができるのだと思います。
ルカによる福音書11章では、「主の祈り」について書かれています。御国が来ますようにという願いは、この世の政治や権力ではない神による支配を祈る言葉です。「必要な糧を毎日与えてください」という願いは、食糧事情が現代よりもよくないことを考えると本当に切実なものでありました。主の祈りに続いて真夜中の来訪者について書かれています。密接な近所付き合いがあった当時では、どの家にどれくらいのパンがあるか想像することができたでしょう。迷惑でも頼めばきっとパンを貸してくれる、と語られています。
この物語を読むとき、私たちは「パンを借りる人」と「パンを貸す人」のどちらに自らを重ねることができるでしょうか。祈りについて、内容には大きく分けて「感謝・願い・反省・とりなし」があるといわれます。豊かな生活の中にいても、ついつい神に何かを求めてしまい、祈りが「願い」中心になるような気がします。「パンを借りる人」の立場にある祈りです。神学者のH. R. ウェーバーは著書の中で、「キリスト者の霊性豊かな歩みについて、理想主義ではなく真実性に徹する」として、「物、人間、状況をよく洞察し、かかわること(H. R. ウェーバー『信徒と教職』p.99)」と語りました。この言葉から連想して、祈りとは求めるだけが重要なのではなく、教会やキリスト者が祈りによって与えられていくのは、どのように現実に向き合うのかということであり、この世の権力や支配によって神格化されたものを「非神話化」する行為でもあるということができるのではないでしょうか。ペンテコステは聖霊が与えられ、力に満ちて宣教が行われたことを記念する時です。これはそれぞれの土地の課題にキリスト教が向き合ったとも解釈できます。この世を聖書の言葉で語ることができる、狭山差別事件をキリスト教の言葉で語ることができる力があるのです。聖霊の働きを祈りましょう。
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