マタイによる福音書 28章16~20節 桝田翔希牧師
現代社会に生きる私たちは、科学の進歩により目では見ることができない、実感できないことについても自然界の法則を知っています。地球は丸いということはよく言われますが、人類がこのことに気づいたのは14世紀のことで、大きすぎて丸いと気づくのに時間がかかりました。またミクロの世界や、素粒子レベルの研究も進んでいます。様々な理論や観測装置で、私たちの身の回りで起こっていることが説明されます。それらで説明される世界は、素朴な人間の感覚では実感できないような世界です。アマゾンの少数部族である「ピダハン族」は現存するどの言語とも類縁関係がないとされ、それまで通説とされていた言語学の理論が通用しなかったそうです。言葉の特徴として、数字を数える単語や、左右を表す単語、色を表す単語が無いと言われています。そして、遠い過去や遠い未来を説明する文法が無く、世界がどのように創造されたのかという「創造神話」を持たない部族であると言われています。過去形が無いということは言い換えると、「直に体験したことでないかぎり、それに関する話はほとんど無意味になる(D. L. エヴェレット『ピダハン「言語本能」を越える文化と世界観』、p.374)」ということであり、「未知のことをすべて知り得るとも思わない(同上、p.379)」ということなのだそうです。
マタイによる福音書の締めくくりの部分は、全世界に向けた伝道に弟子たちが派遣されるというものです。これは系図をもってユダヤ教的に書かれ始めたマタイによる福音書が、特定の民族に限定しない福音を記録したということであり、復活の結果は伝道であったということができます。この箇所では「すべて・一切」という言葉が4回繰り返され、派遣が世界中に及ぶということが強調されています。恐らくこの時代、弟子たちは地球が丸いとは思っておらず、どれほど大きな星であるかも知りえなかったことでしょう。どんな形かどんな距離なのか、何もわからないまま、それでも希望の内に派遣されていきました。
私たちは、実感では把握できない地球の姿や自然界の法則を知っているということに加え、発達した情報網でグローバル化した時代を生きています。地球の裏側で起こっていることも、少しの時間差で知ることができ、多くの情報に囲まれています。過去のことも多く知っていますし、未来の予想もされます。しかし、生身の人間が知ることができる範囲はごく限られているのではないでしょうか。情報だらけで辛くなる時があります。遠い過去、未来、遠くのこと、どれも大切ですが「未知のことをすべて知り得るとも思わない」という感覚も大切なのではないかと思います。神は私たちに先立って、宣教の地で働かれています。世界に向けて伝道がされるという宣言は、私たちの知りえない世界の姿を神に委ねるということでもあるのではないでしょうか。「世の終わり」と言えば科学的にはなんとなく説明できそうですが、それを越えた神の御旨にわたしたちは希望を委ねているのです。
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