ルカによる福音書 7章1~10節 桝田翔希牧師
最近、「自己啓発」というものが流行っているのだそうです(「スペクテイター」2023年、Vol.51“自己啓発のひみつ”)。そう言われてみると、本屋で自己啓発というジャンルの本を見ることは珍しいことではありません。自己啓発というジャンルの本では、成功するための思考方法が紹介されているわけですが、便利になった世の中である反面、一人ひとりの仕事量や責任の範囲は増え、時には失敗することもあります。最終的に「成功者」となるには自己啓発で語られるような容易な法則が関係するのではなく、運や元々の経済状況など様々な要因が関係してきます。福沢諭吉の『学問ノススメ』も自己啓発に分類されるそうですが、「人の上に人をつくらず」と説き、学ぶことによって人は変わることができると書かれていますが、実際のところそんなに簡単ではありません。単純な構造化は他者の境遇を因果応報と軽視することにつながります。
カファルナウムにいた百人隊長はローマ人でありながら、ユダヤ教の会堂建築を助けたりして、ユダヤ人からあつく信頼されていました。この人の部下が中風になってしまいます。長老たちがイエスを連れてきましたが、百人隊長は自らが異邦人であるとして、家にイエスをあげるのは恐れ多いとして、言葉だけを求めました。そしてこの言葉によって、触れずに離れた場所からの奇跡が起こりました。なぜイエスは百人隊長の信仰をほめたのでしょうか。ユダヤ教によくしてくれていたということだけでは、無いように思うのです。言葉だけを求める信仰とは、行いを重視する律法主義とは真逆のものです。行き過ぎた律法主義を批判したイエスにとって、神が言葉で世界を創造したように、神の言葉こそが大切であるということではないでしょうか。
律法主義は、羊飼いなど様々な境遇で律法通りに生きることができない人たちを蔑みました。宗教的に恵まれた人だけが、律法を守ることができ、神の恵みを受けるとされていきました。ここには自己責任論的な聖書解釈があります。自己啓発という文脈の中で、「自助努力」という言葉が使われます。自らの内面を高めようとすることは悪いことではありませんが、今日にあって副詞は縮小され、家族の問題は家族で解決するようにという圧力が増しています。いわば、「自助を強要される世の中(「スペクテイター」2023年、Vol.51“自己啓発のひみつ”)」です。やはり今日にあっても、神の言葉のみにかえろうとさせるイエスの言葉は大きな意味があるのだと思います。
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