ヨハネによる福音書 6章34~40節 桝田翔希牧師
近頃は気付けばどんどん物価が上がっています。ガソリンの値段も上がり続け、150円以上でもあまり驚かなくなりました。総務省の発表によるとこの1年間の物価上昇率は4.0%なのだそうです。食料品などの値段も上がり、生活が圧迫されています。天候などの理由で食料品の値段が上がるということは、今までもよくあったので半ばあきらめているというか、当たり前のように思うものです。しかし、古代ギリシャの市場で生活必需品である食糧は固定価格とされていたのだそうです。食料が買えないということは、死活問題になりますのでこれを防ぐために政府が機能しており、結果として「食料の売買が利得の対象となることを防ぐ(藤原辰史『縁食論―孤食と共食のあいだ』2020年、p.102)」ということになっていました。
福音書の中で、イエスを描く場面の中で食事にまつわるものが多く記録されています。5000人の給食や徴税人と食事をする場面、復活後にエマオでの食事の場面などがあります。「イエスは命のパン」とのタイトルがつけられたこの箇所も、食べ物に関連することが語られています。前の部分では5000人の給食や湖の上を歩くという記事があり、イエスの奇跡的性格が強調されています。そして今日の箇所は、28節で「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という問いがあり、これに批判のような返答をイエスがし、命のパンについて説明がされます。ここでは聖餐式を念頭に置いているような文章もあります。聖餐式は様々な議論があり、強調点もいくつかありますが、イエスの食事の周りにどのような出来事があったのか思いをはせるものです。その経験から「命のパン」ということを語ったのではないでしょうか。
今日にあって儀式のように食事がされることがあります。そこで用いる食品も私たち人間が用意しています。また日常の食事も、価格変動の中でお金を出して対価として調達しています。食事のありがたみは薄れる一方です。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」という問いにイエスは冷ややかに応えました。ここには、人間側から神に近づこうとする体質を批判している部分があると考えられます。人間は天からマンナを与えられたように、神からの恵みによって生きているということを心にとめて、命のパンを求めるものでありたいと思います。
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