ルカによる福音書 23章26~43節 桝田翔希牧師
次週にイースターを控え、レント(受難節)も大詰めを迎えています。今回の聖書箇所は、喜ばしいイースターを前にイエスが十字架にかけられ、痛々しく血を流し、荊の冠をかぶせられる残酷な場面です。冠とは人類の歴史の中で、地位をあらわすためによく使われてきました。日本でも烏帽子で地位を表したりしますが、中国でも被り物をもってその人の地位をあらわすということがよくされてきました。しかし、イエスがかぶせられた冠は、地位を表すものでしたが、高い地位をあらわすのではなく、侮辱を表すもので皮膚を破り血を流すトゲの付いた荊の冠でした。いわば烙印としての冠でした。烙印という言葉に似た言葉で「スティグマ」という言葉があります。この単語は焼き印や烙印を意味し、そこから転じて家畜や奴隷、犯罪者を示す言葉となりました。現代では差別と同じような意味でも用いられます。キリスト教の文脈の中では、イエスが十字架で負った傷を意味するものとしても使われてきました。
イエスが十字架を担いで歩いた道はヴィアドロローサと呼ばれ、今日では観光名所となっています。ここで通りがかった、「キレネ人のシモン」がイエスの十字架を肩代わりさせられます。続いて、イエスを心配して見守っていた女性たちが登場します。イエスはこの人たちに、イエスのことではなく自分や自分の子どもを心配するように語り掛けます。そしてイエスが十字架につく場面では、二人の罪人が両脇に磔にされていました。一人はイエスを非難し、もう一人はイエスを受け入れました。ルカによる福音書の著者は、この場面に様々な登場人物を登場させて描いています。多様な立場や視点が描かれています。他人事だと思っていたイエスの十字架が、自分のものとして迫ってくる、そのような共通点があるのではないでしょうか。
昔、病によって差別が起こるということがよくありました。ハンセン病で言うと、治療法が確立し感染力が弱いということがわかっても、「らい予防法」として国による差別が1996年まで続きました。この法律がなくなり、今日にあって病による差別は起こらないような雰囲気があったように思います。しかし、コロナによって「コロナ差別」という言葉が生まれました。コロナによって「スティグマ」が与えられることがあるということです。私たちの社会は、このような偏見を未だに持ち続けていたのでした。イエスが受けたスティグマをどのように捉えているでしょうか。他人事であったように見えたスティグマは、我がこととして転換されていきました。私たちは一人ひとりがイエスのスティグマを肩代わりする存在なのです。
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