ルカによる福音書 24章36~43節 桝田翔希牧師
イースターを経て、召天日からペンテコステへと続く期間を過ごしています。復活ということに関連してキリスト教の中で、多くの歴史や教義が形成されてきました。長い期間にわたりキリスト教の活動がされてきましたが、現代に生きる私たちは最終的な教義などを通じてキリスト教を「信じ」ています。私たちは日常生活で多くのことを学び、このことが行動に影響しています。意識的に学ぶことや、文化などの影響により無意識的に習得しているものもあります。キリスト教は地理的に言えばイスラエルに端を発する宗教ですが、日本の文化とはかなり異なった文化の中で形成されていきました。無意識的に理解できない・理解しきれないことも時にはあるのではないでしょうか。
エマオへの道のりで弟子の前にイエスが現れた後の場面で、エルサレムに弟子たちが集まってイエスの復活のことについて話していました。エマオへの途中でイエスの復活を信じたはずの人もいましたが、いざ目の前にイエスが現れると、幽霊ではないかという思いも湧き上がってきました。結果を知って読むと滑稽な姿です。しかし、槍で刺されて十字架で死んだ人が生き返るということは絶対にありえないことです。医学的・生物学的にあり得ないことが起こっており、疑った弟子たちの姿は何ら不思議なものではないのです。当たり前の情景があります。
偏見ということについて、被害者への有害さは説明するまでもありませんが、近年では加害者にも有害なことがあるということが指摘されています。偏見に対する加害者も「認知・情緒・行動」の面において不利益を被ると言われています。一例ですが、偏見のある社会にあって、抑圧者が偽の現実に生きることを可能とし(認知)、自らが差別者ではないかという恐怖の中を生きつつ(情緒)、差別を指摘されることを恐れ本当はもっと豊かな関係性で生きられるのに限定された人としか向き合うことができない(行動)という状況になります。弟子たちも、イエスは生き返らないという偏見に生きていたと思うと「認知・情緒・行動」の面で復活を信じることができませんでした。私たちは教義として復活を知っています。しかし、完全にわかりきっているというわけではなく、どこかに偏見をもって復活を知っているという状態にあるのかもしれません。
偏見というより疑いのように感じます。だから本気で信じる大切さがあると思います。