ルカによる福音書 9章21~27節 桝田翔希牧師
受難節を迎え「イエス・キリストの十字架の意味をテーマにして礼拝を守る特別な期間(今橋朗『よくわかるキリスト教の暦』2003年、p.45)」となっています。十字架というシンボルは、今日にあってはキリスト教を象徴するものとしてよく使われますが、キリスト教が十字架をシンボルとして使うようになったのは、一説によると西暦300年頃であったようです。死刑の道具を、共同体のシンボルとして用いる団体はあまりありませんが、現代で十字架は広く認知されファッションに取り入れられることもあります。死刑ということで考えますと、日本では死刑制度がありますが法的解釈として「犯罪を予定するものに対して威嚇(一般予防説)」するという意味があるそうです。見せしめにされる十字架刑とは、ローマ帝国による「威嚇」の意味合いがあり、「恐怖による支配の道具(J. H. コーン『誰にも言わないと言ったけれど 黒人神学と私』2020年、p.204)」と言えます。
「死と復活を予告する」という箇所で、イエスは自らが死に復活することを語りました。その中で「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。(23節)」という言葉は、深い問いかけを私たちにしています。「自分の十字架」とは何でしょうか。私たちは各々の生活の中で、様々な重荷を持ちます。悲しみや苦しみ、痛みがありますが、それらを指して十字架と解釈することもできると思います。受難節にあって私たちはどのような十字架を思い描くものでしょうか。そして、自分の十字架を負うことは神の国につながることであると、聖書は締めくくっています。
アメリカで奴隷として働かされた黒人は、時として白人による私刑のリンチがされ、木に吊るされることがありました。この行為は単なる断罪ではなく、白人優越主義に基づく黒人への「警告」という意味合いを汲み取ることができます。神学者のジェームズ・コーンは「クリスチャンと神学者は、十字架にリンチの木を、リンチの木に十字架を見ることができる目を持たなくてはいけない。(J. H. コーン、2020年、p.203)」と語り、「2000年に及ぶキリスト教史の過程において、救済の象徴だった十字架は、その時々の人間の苦しみや抑圧、十字架に付けられてきた人々から引き離されてしまった(J. H. コーン、2020年、p.206)」と批判しています。私たちはどのような十字架を思い浮かべるでしょうか。ファッションでも使われる十字架は、死刑の道具であり「恐怖による支配の道具」でした。ここからイエスは復活の希望、命の希望を示したのです。十字架を負うとは容易なことではないのだと思います。
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