ルカによる福音書 8章4~15節 桝田翔希牧師
京都の有名ラーメン店の再現レシピを試したとき、レシピに「九条ネギ」が指定されていたのですが、尼崎では見つけることができませんでした。九条ネギとは、伝統野菜と呼ばれるものですが、昔は自分たちの畑で育てて種を収穫して、蒔いて育てるということが脈々と行われてきました。このような品種は固定種と呼ばれていて親株と子株の差はそれほどでないとされています。一方で、現代のスーパーで売られている野菜の多くは改良品種の「F1種(雑種第一代)」というものだそうで、メンデルの法則で2代目になるとばらつきが多くなり、種を取って育ててもうまくいかない品種があります。このような品種改良や農業技術の向上によって、現代では一つのコメの種もみが、400から1000粒のコメを実らせるのだそうです。古代種や古代の農法ではそうもいかないと思います。
種まきのたとえ話は、絵画にもなり有名な話ですが、よい土地にまかれた種は100倍になると説きます。宣教論であったり、神の国が必ず到来するという希望のメッセージとして読まれてきました。ここで、イエスという人を考えたとき「ガリラヤという農村で活動したイエスは、自らもガリラヤ農業に深いかかわりを持ち、その関りの中で『福音』と呼ばれるものを宣べ伝えた(星野正興 他『人間イエスをめぐって』1998年、p.73)」とすることができます。大工という職業は、家だけではなく農機具の作成や修理も行い、農業と深くかかわっていたのではないかということです。そのような中で、イエスが「種もみが100倍になる」と語ったとき、そこには農業的な実感があったのではないかと思います。マルコによる福音書は、このたとえ話の解説として一粒の種が「30倍60倍100倍になる」と付け加えています。当時の農業的な実感としてはそれぐらいが、生活に根差した共感できる数値だったのではないでしょうか。
今日にあって、環境問題は深刻ですが、その中で「土の衰え」や「砂漠化」が指摘されています。戦後、各国で食糧の増産がテーマとなり、農業機械や化学肥料の発達、品種改良により収穫率は大幅に向上しました。そして世の中は、大量生産・大量消費となり、大量の廃棄物が生み出されました。しかし、土壌を酷使するなかで「近年では、自然生態系で分解できない化学物質が急増(「スペクテイター 47号 土のがっこう」2020年、p.49)」する結果を招いています。すなわち、私たちは100倍どころの実りで満足できない社会に生きています。更には土壌と同じように人間も酷使され、使い捨てにされていく現状もあります。種まきのたとえ話を希望のメッセージと読みながら、私たちの生活が昔と比べて大きく変わっているということも考えさせられます。人も土壌も酷使されるこの世の中で、私たちは何倍のめぐみを求めているのでしょうか。
尼崎の商店街の入り口近くの尼崎信用金庫の並びに、京漬物屋があり、九条ねぎの時期ならありますよ