ルカによる福音書 4章1~13節 桝田翔希牧師
京都の「御土居」と呼ばれる遺構は、豊臣秀吉が市街地全周にわたり外敵や洪水から守るために建築された土塁です。居住区の拡大や外敵の心配がなくなったことから、ほとんどは取り壊されましたが、現在でも一部を残っています。聖書で言えば「城壁」のようなものでしょうか。「御土居」は外観もさることながら、部落差別の一つの側面を伝えるものでもあります。当時、寺の建築などの理由で一つの集落が移転させられるということが行われることがあったのですが、移転を余儀なくされた被差別部落もありました。この場合、一概には断言できませんが移転先として御土居の周囲が移転先とされることが多くありました。居住区の端っこであったり、御土居の外でもすぐ近くということです。このことからは、部落差別が(「士農工商の下」に置かれたということがよく言われますが)「士農工商の外」という意識があったということが言えます。しかし、都市部の生活のために被差別部落は必要な存在で、排除はするけれど利用する、という社会の在り方を読み解くことができます。排除されつつ、社会のシステムのために利用・搾取され、差別される中で人間の尊厳が奪われたのです。
イエスは「荒れ野」で悪魔からの「誘惑」を受けたと聖書は語ります。「荒れ野」とは居住区の外であり、城壁の外を意味しています。古来より聖書はこの場所を神の業が行われる場所としてきました。ここで悪魔はイエスを誘惑しますが、なんとなくそんなに悪いことでもないようなものです。「食べ物のこと・権力のこと・神の力の証明にまつわること」、どれも魅力的なものです。しかし、このことがかなえられる条件は「もしわたしを拝むなら(7節)」ということでした。「拝む」とは「膝まづく」という意味もある言葉で、悪魔に自らの人格を投げ出すこと、自らを失うこと、尊厳を放棄するということです。悪魔は様々な誘惑をかなえてくれますが、尊厳は与えてくれなかったのです。
現代社会は悪魔がしているような誘惑があるようなものではないでしょうか。社会は豊かなようで、搾取があり、人が使い捨てにされていく、差別があり尊厳が奪われる…わたしたちこそまさに荒れ野にいるような状況なのかもしれません。そこで私たちは何を拝もうとしているのでしょうか。富や権力なのでしょうか。ルカによる福音書で「拝む」という単語は3回しか使われない言葉で、内2回はこの個所です。残る1回はルカによる福音書24章52節で弟子たちが復活のイエスに出会った箇所です。イエスは神の国を語り、出会った人たちと向き合われました。そこには差別され排除された人々の尊厳の回復がありました。しかし、その先にあったのは十字架で殺されるということであり、弟子たちは恐れ逃げまどいました。しかし、復活の希望が示されました。無残に殺されたけれど、イエスのいきいきとした御言葉に、人をいかす御言葉に弟子たちは喜び拝んだのです。レントを迎えイエスが語った命に思いをはせつつ、私たちは何を拝むものなのでしょうか。
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