ルカによる福音書 9章10~17節 桝田翔希牧師
先日、南インドカレーを作ってみたのですが、使ったことのないスパイスを使ったり、あまり煮込まないというレシピに驚きました。日本で暮らしていると「スパイス」というものにはあまり馴染みがありません。スパイスをどのように使うのか難しく感じるわけですが、ある料理本には「スパイスは経験(按田優子『たすかる料理』2018年、p.101)」という言葉がありました。おいしいと思った料理でどのようにスパイスが使われていたのかという経験の積み重ねで、スパイスを使いこなせるようになるのだと思います。スパイスは医療薬の原料になるものもあり、健康が重要視される今日にあって有益な食材と思われます。しかし、健康ばかりを考えて料理をしているかと思うとそうでもありません。健康という定義が広がる中でどんな自分でありたいかということを考える、例えば「その時、そばにいる人と同じものを食べて一緒に喜びたい」そんなことから私たちの健康を考えることも大事なのかもしれません。そんな食の経験の積み重ねが、スパイスをうまく扱える人をつくるのではないでしょうか。
「5000人に食べ物を与える」という箇所は、奇跡物語の中で唯一、4つの福音書すべてに書かれていて、初期キリスト教会において印象的な物語であったと考えられます。前の部分を読むと、弟子たちは病を癒す権能を授けられ派遣されています。恐らく癒しの業を方々で行い、自信に満ちて帰ってきたからなのか、今日の箇所では「使徒」と呼び名が変わっています。そしてイエスのもとには「使徒」だけではなく、「追って(11節)」来た人々がたくさんいました。「追う」という単語は「従う」とも訳される単語で、招きに応えた弟子がイエスに「従う」といった場面に用いられる単語です。ここでイエスを追ってきた5000人の人々は、広義の「弟子」だったのではないでしょうか。しかし使徒たちは持てるものが少ないと理由で、「広義の弟子」と食事は共にせず、それぞれに帰ってもらおうとしました。人々は共に食卓を囲む仲間とはしなかったということです。
ナチス政権下で処刑された神学者のボンヘッファーは「他者のための存在」ということがイエスの決定的な指標であるとしました。そして教会が自己保身的になる傾向の中で、「教会は他のための存在である時にのみ教会である」と規定しました。他者とはだれか、ナチス政権下でユダヤ人は人間として扱われず、虐殺され、他者ではなくされていきました。「他者のために…」という問いかけは、「他者とは」、「隣人とは」、「民衆とは」誰なのかという問いかけでもあります。今日の教会にとって、持てるわずかなものを分かち合う他者とはだれで、何が教会が教会であるために大切なことなのでしょうか。
南インドカレーはコッテリ辛い!感じですかねー。神戸にある「ガンダーラ」というインドカレー店は確か北インドカレーだったと思います。