ルカによる福音書 3章15~22節 桝田翔希牧師
年末に、三角公園で行われた釜ヶ崎越冬闘争の前夜祭に参加しました。日本の年末年始は寒い時期になりますが、役所が休みになってしまい行政の生活支援がなくり、また多くの企業も休みのため労働の雇用も激減します。この時期の命を守るために「越冬闘争」が行われます。前夜祭が行われた三角公園では、中央に焚火がたかれ、暗がりの寒さの中で人々が炎に集まっておられました。ある統計を見ますと全国的に見て、凍死者数と熱中症による死亡者数を比較すると、圧倒的に凍死者数の方が多いのだそうです。野宿をせざるを得ない人々、また家があっても暖房を焚き続けることができない状況もあります。この時にあって、冬の寒さは簡単に人の命を奪うということを痛感させられます。
ルカによる福音書は、イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けようとした時期のことを「民衆がメシアを待ち望んで(15節)」いた、と説明します。人々はヨハネを見てこの人こそがメシアではないかとも思いました。なぜメシアを待ち望んだのか考えますと、当時は今ほどに政教分離というわけではありませんので、単に宗教的な指導者を待ち望んでいたというよりかは、全生活を救ってくれるメシアを待ち望んでいた、現在の苦しい生活が変わることを切実に待ち望んでいたということです。しかしヨハネは、自分より後に現れる方が、水ではなく「聖霊と火」によって洗礼を授けると説きました。このヨハネの洗礼活動にイエスも並び、洗礼を受けられました。天から声が聞こえたという描写はありますが、民衆が驚いたり、ヨハネがイエスを直接に讃美するような場面は書かれていません。イエスはあくまでも一人の人として洗礼を受けられたということでしょうか。
画家のアイヘンバーグはイエスの姿を、炊き出しに並ぶ人として描きました。炊き出しを配る人としては書かなかったのです。ヨハネの洗礼に並んだイエスの姿に、通じるのではないでしょうか。釜ヶ崎の前夜祭や、越冬活動に参加する中で釜ヶ崎で働かれた金井牧師の言葉を何度も思い出しました。「もう一度、原点に返って、炊き出しに並んでいる労働者を救済の対象ではなく、戦いの同志であることを確認しながら、炊き出しを続けていきます。(関西労働者伝道委員会『イエスが渡すあなたへのバトン』2017年、p.256)」イエスが聖霊と火によって洗礼を授けると言われる時、その火は罪人を焼きつくすような厳しい炎をイメージすることもあります。しかしルカ文書にとって、炎とはペンテコステで降りてきたような、違いを乗り越えて福音を語る力であり、私たちの命を温かく照らす炎でありました。三角公園の炎のように、イエスの聖霊と火による洗礼は、私たちの命を温かく照らしているのです。そしてここに闘いの同志がいることを教えてくれるのではないでしょうか。
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