ルカによる福音書 21章1~9節 桝田翔希牧師
2020年に「渋谷ホームレス殺害事件」と呼ばれる事件が起こっており、周辺住人の男性が、石の入ったビニール袋で、女性の野宿者を殴りつけ、亡くなってしまいました。男性は地域の清掃ボランティアに参加するような人で、「痛い思いをすれば立ち去ると思った」と供述したそうです。一人の人の人権が忘れ去られている事態なのではないかと思います。人間は、他者が人間であることを忘れてしまう時があるのです。
本日の聖書箇所は「やもめの献金」とタイトルがつけられていますが、日本語で「貧者の一灯」という言葉がありますが、色々な宗教で語られるモチーフとなっています。経済的に貧しい人が、持っているものを神にささげるという話です。ここで登場するのは、やもめとされる女性で、2レプトンという数十円に相当する献金を神殿に捧げています。豪華絢爛で有名だったエルサレム神殿ですが、総工費は莫大な資金が必要でしたでしょうし、これを維持管理するための人件費も多額だったことでしょう。2レプトンは、そのような費用に比べれば無視されるような金額とも言えます。しかし、イエスはこの女性を見つめました。
「やもめ」と翻訳されている言葉は、ギリシャ語も日本語と同じように「配偶者を亡くした女性」に対して使われる言葉です。日本では「家制度」が明治憲法に記されて、男性である家長がいて、女性は家の存続のための労働力とされてました。新憲法でこの条文はなくなりましたが、未だに「家制度」的な考えは残っており、日本における性差別の大きな要因ということができるでしょう。「やもめ」に関連して「未亡人」という言葉がありますが、とてもひどい言葉だと思います。このような言葉を疑いなく使うことができるのは、「家制度」によるものでしょう。時として私たちは「歪な関係」の中で他者を差別したり、人権を忘れたり、その人の存在を無視するということがあります。神学者のカーター・ヘイワードは家父長制などを批判する中で、「相互性」という言葉を用いました。この相互性というのは関係性のあり方のことで、「その関係の中にいる人が皆、より十全にその人らしく―誠実に、全人格的に―なることができるよう促されるような、分かち合う力(工藤万里江『クィア神学の挑戦 クィア、フェミニズム、キリスト教』2022年、p.59)」と説明しています。これに比較して、家父長制などの支配-被支配の関係性の中で「やもめ」と呼ばれる人がいるという状況は「相互性」ではなく、その人が十全に生きようとすることを阻害する力です。イエスがやもめの人を見たということは、この人が「未亡人」ではなく、「今を生きる人」に他ならないというメッセージがあるのではないでしょうか。
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