マタイによる福音書 25章14~30節 桝田翔希牧師
先日、保育園で森永製菓の「マンナ」というお菓子を初めて知りました。幼児用のビスケットやウエハースに付けられている商品名なのですが、出エジプト記で天から降った「マナ」から名付けたのかなと一瞬思いましたが、そんなことはないだろうと思いました。しかし、調べてみるとホームページには旧約聖書から名前を付けたとあり、驚きました。さらに調べてみますと、森永製菓の創立者の森永太一郎は渡米した際に受洗し、伝道を志して日本に帰国したのだそうです。しかしうまくいかず、アメリカで製菓技術を習得し、森永製菓の操業に至ったのだそうです。仕事で忙しい時期には教会から遠のいてしまったようで、社長退任の辞では「森永という菓子会社を始めたのは、その利益をもって福音の宣伝に努め、信仰のためにささげるつもりだったのである。(中略)ところが、世の中が恋しくなり、いつか信仰から遠ざかるようになってしまった」と書かれているのだそうです。
「タラントンのたとえ」は福音書の中の「イエスの譬え話」の中でも、「タレント」の語源として紹介されたりと有名な聖書箇所ではないでしょうか。この物語はルカによる福音書にも記録されていますが、王位継承の場面となっていたり、お金の単位が変わっていたりと、少々印象の違う物語になっています。エウセビオスがナザレ人の福音書の「タラントンのたとえ」を引用している文章が残っているのですが、そこでも物語の印象はかなり違ったものであったことが考えられます。長い伝承の過程で、様々な解釈がされた譬え話であったということができます。ですので、有名で読みなれた物語でありますが、詳しく読むと様々なモチーフが含まれています。1タラントンという単位もあまり疑問なく読むものですが、6000日分の給料と言われる額で、15年分の賃金、1日1万円と思うと6000万円です。普段の生活で実感として捉えるのは難しいような額面です。しかし、ここで主人は「お前は少しのものに忠実であった(21節)」とこれらのお金を言い表しました。すなわちこの主人は、一握りのエリートお金持ちだったのです。聖書学者の山口里子さんはこの物語を指して「見えなくされている搾取システムの構造・機能」が露呈されている、と指摘しておられました。
自らのタラントンを活かそうと解釈されることが多い聖書箇所ですが、大金を「少しのもの」と言い放つ主人にこき使われる状況にあれば、読み方も変わるのではないかと思います。自らを外に投げ出されて、歯ぎしりするものとして読むことはあまりないと思います。しかし、この後に続く個所では、牢につながれた人を見舞うということが書かれています。ここで薦められているのは、1タラントンを土に埋めたがために追い出された人を見舞うということではないでしょうか。私たちは神の国をどのようなものとして考えているでしょうか。私たちが生きる世界は、このたとえ話の主人がしたように、大金が動いて一部の人が得をし、格差の多い世界です。この世界で私たちはどのような神の国を描くことができるでしょうか。
Comments