ヨハネによる福音書 7章25~31節 桝田翔希牧師
クリスマスが近づいてきましたが、今年はコロナが第5類となりコロナ前のような雰囲気の中でクリスマスを迎えようとしています。ひと時はマスクが買えなくなりながら、街を歩くときはほとんどの人がマスクを着けていました。おそらく一定の効果があったのだと思いますが、最近ではマスクを着けずに出歩く人も良く見かけるようにもなりました。マスクは効果があるのでしょうが、単純に息苦しいし耳も痛くなります。コロナ下にあっては迷信じみたことが良く言われました。ワクチンに効果があるのかどうか、イソジンが効くらしいと言われればすぐに売り切れたりしましたが、本当のところはどうなのでしょうか。科学的な思想を生きる現代人という感覚がありましたが、案外私たちはわけのわからないことに影響されて生きているのだと思います。
巡礼のために地方から来た人ではなく、元々エルサレムに住んでいた人たちがイエスを見て思いめぐらすという聖書箇所があります。エルサレムの人々はおそらく、律法学者などの宗教指導者層がイエスを敵対視しているということを知っていたようで、公然とシナゴーグで言葉を語るイエスを見て、議員たちはイエスをメシアと認めたのか?と話し合います。政治家の決定にメシアかどうかの判断をゆだねる姿があります。また当時の習慣でメシアが出身地のわからない人であるという考えに照らし、出身のわかるイエスはメシアでないとも論じました。しかしどこかでこの人はメシアではないかとも考え、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。」ともあります。素朴な感覚による信仰があります。どのような判断が正しかったのでしょうか。最終的に人間の判断は不確定なものでありました。
聖書を指して「正典」と呼ばれることがありますが、これは「リスト」という意味のある表現で、聖書にふさわしい書物の目録が決められたということです。逆に言えば、聖書にふさわしくないと排除されたものがあったということです。キリスト教の主流が決められていくという歴史があります。しかし、現代に生きる私たちもイソジンを買ってしまったり、絶対的な正しさをもてない存在です。私たちは決まりきったようなイメージを持っています。しかし、その時代にあって新しく語りかけられるクリスマスの物語があるように思います。私たちも、迷いながらクリスマスの輝きを探す旅の途中にあるのです。
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