ヨハネによる福音書 5章36~47節 桝田翔希牧師
クリスマスの物語はキリスト教の年間行事の中では、最も盛大に祝われるものと言っても過言ではないように思います。しかし、4つの福音書ではマタイとルカでしか記録されていません。一方で、十字架での受難ということは4つの福音書がそろって記録しています。歴史的に考えると、初期キリスト教会はクリスマスよりイースターの方が重要視していたということができます。しかし、現代日本ではクリスマスの方が盛大に祝われます。そして、聖書には書かれていないこともいつの間にやら信じてしまっています。クリスマスに関する聖書の記述について、よく言われることの一つに東方の学者は3人とは書かれていないということがあります。聖書には学者たちとあるだけで人数までは記されていないのですが、なんとなく3人と言うイメージはないでしょうか。私たちは聖家族などの置物から、伝説的なクリスマス像を持っているように思います。そして暖かな聖家族像に、私たちは家族観を押し付けられるような気もします。クリスマスの物語の背後には住民登録(戸籍制度)をさせて効率よくお金を集めようとする管理思想が見え隠れしています。
イエスはベトサイダという場所の池で安息日に癒しを行い、激しい非難にあうことになります。そこに反論して、イエスの権威は人から与えられたものではなく、神から与えられたと問答がされます。私たちはどうでしょうか。他人からの評価や権威付けを大切にして生活をしているということが正直なものではないでしょうか。日本の文化などに知らないうちに規範を与えられ、他者を裁いてしまうことがあります。戸籍制度なんてそんな大したものなのだろうかとも思います。
クリスマスという出来事を祝う時でも、様々な日本という土地に由来する圧力(バイアス)が働いているのではないかと思わされます。聖書が共通して語るクリスマスは、イエスが未婚の子どもであり、当時の家父長制度の中では考えられないような姿として現されました。これは、当時にあって「普通」と思われていることや、普通ではなく少数派で「忘れ去られるような場所」でクリスマスの出来事が起こったということでもあります。私たちが日本で普通と思っているところや、忘れ去られてしまうところを、今一度見つめなおすというところにクリスマスまでの備えがあるのではないかと思うのです。
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