収穫感謝日礼拝を迎えることができました。この日は信仰の自由を求めてヨーロッパからアメリカ大陸に渡った人々が、飢えに苦しみながら収穫に喜んだという出来事を祝う【サンクスギビングデー】に関係する行事です。アメリカという気候の違う土地に移り住んだ人々は、思うように作物が作れず飢え死にの危機に直面しますが、元々その土地に住む人々(インディアン)に、その土地の作物の種をもらい育て方を習って冬を越すことができ、共に喜んだとされます。しかし、その後にはアメリカ先住民に対する殺戮と略奪が起こっていきました。ある立場ではアメリカ大陸を開拓することができた祝いの【時】であり、ある立場では自分たちの土地と尊厳・命を奪われた呪いの【時】となったのです。
ヨハネによる福音書18章では、イエスが十字架の前に裁判にかけられるという箇所が語られています。ローマ帝国に支配されていたイスラエルは、ユダヤ法とローマ法による裁きという二つの立場による裁判がされていました。ユダヤ法による裁判を経たイエスを、ローマ法の裁判でピラトが裁こうとしますが、特に罪は見当たりませんでした。現代で言えば不当裁判と言える形でしたが、ピラトは群衆の声に負けてしまいます。このような裁判が現代でなされるならば、全く否定されると願いたいものです。
今日の日本の刑事裁判では起訴されると99.9%で有罪になるのだそうです。このことを誇って精密司法とも呼ばれますが、冤罪が存在しおかしな圧力が存在します。今年になって0.01%の無罪判決がありました。釜ヶ崎の監視カメラにプライバシー侵害としてスーパーの袋を被せることは、一度有罪とされましたが無罪となりました。不当な訴えであったと証明されました。私たちは自分の立場に固執するとき、均等な思考を失い他者を否定してしまいます。その考えがイエスを処刑に追いやりました。作物の育て方を教わったなら、共に生きる生き方を模索できたにもかかわらず、排除と殺戮が起こりました。私たちはうれしい出来事を共に生きる糧として捉えることができているでしょうか。捉えることができない中でイエスは殺されていったのです。クリスマスにあってこのことを共に悲しみつつ、新たな未来を拓く者でありたいと思います。
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