ヨハネによる福音書 6章27~35節 桝田翔希牧師
年に2回、教団の教師検定試験というものが行われるのですが、志願者は教区から推薦されるという形になっており、兵庫教区内では常置委員会での面接とそれに先立ってオリエンテーションというものが行われます。11月は常置委員会での面接とオリエンテーションの季節であり、先日行われたものに参加してきました。教師検定試験では提出物の中に「召命観」というものがあるのですが、私が受験するときはどう書いたらいいのかすごく悩んだ記憶があります。今から思うと、あやふやな召命観ではありましたが、試験の提出物として書くということで何を書いたらいいのか迷いました。おそらく今書いたらだいぶ違うことを書くように思います。これは召命観が変わったということではなく、教会の中で多くの時間を過ごし様々な出会いの中で、おぼろげな召命観がより形にされていったということです。私たち人間というものは、歳をとっても案外変わらない部分があるわけですが、一方では多くの変化をしながら生きているのだと思います。
ヨハネによる福音書で、イエスは5千人の給食と湖の上を歩くという奇跡の後で、「命のパン」について語りました。身体を満たすパンではなく、命のパンを求めるようにと語ったのです。当時は律法主義という考え方が流行していたようで、何かの行いによって人は神によって救われると考えられました。そうではなく、パウロが言ったような信仰によって義とされるのだということがこの箇所では書かれています。
信仰の物語として読めば、確かに命のパンは大切です。しかし、豊かと言われる日本にあって年間で1000人ほどの餓死者が報告されているのだそうです。世界を見れば餓死を原因に命を落とす人というのはもっと多いでしょう。命のパンも大切ですが、生命のパンも大切です。私は好きなものを食べることのできる生活であるからこそ、この物語から容易に「命のパン」というメッセージを受け取ることができるのかもしれません。私たちは様々な立場を持ちながら、変わりながら生きています。命のパンという言葉の意味も、長い時間をかけて私たち自身の中に肉の言葉とされていくのだと思います。
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