ヨハネによる福音書 1章1~14節 桝田翔希牧師
イスラエル・パレスチナで戦争が起こっています。日本から見れば遠く離れた地域であり、ユダヤ教とイスラームは日本で言うとあまりなじみがないので、どこか遠い地域の出来事のようにも感じられるかもしれませんが、聖書の舞台となっている地域での戦争であり、私たちも全くの無関心でいられるものでもないと思います。イスラエルという国家は、聖書にも書かれていますが何度か戦争の敗北を経験し、時には捕囚や離散という苦い経験をしました。しかしそのような記憶は、少なからず現在の戦争を肯定する言葉となっているのではないかと思います。聖書の言(ことば)は人間が解釈する中で、戦争を肯定する言葉にもなりえるのです。そして「言葉」による和解ではなく、武力による戦闘が始まりました。私たちは何をすることができるでしょうか。言葉の無力さをかみしめるような気持でもあります。
ヨハネによる福音書の冒頭部分は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」と書き始めました。福音書にとって「書き始め」はおそらく重要なものであったと思われます。他の福音書では系図から書き始めたり(マタイ)、「神の子イエス・キリストの福音の初め。(マルコ)」とイエスが神の子であるという告白で書き始めたりしています。ヨハネは宇宙の創造の最初から福音書を書き始めています。世界を創造する神の「言」は、完全な秩序でありそこに神と同様のイエスが存在していると告白しているのです。
ここで「言」という単語は「ロゴス」というギリシャ語になっているので、この箇所のことを「ロゴス賛歌」と呼ぶこともあるほどです。ここで日本語の聖書(新共同訳)は翻訳として、「ロゴス」を「言葉」ではなく「言」と訳出しました。ギリシャ語として様々な背景があると思われますが、日本語として「言葉」とはどのような由来があるのでしょうか。「葉」という漢字が充てられることについては諸説あるようですが、日本語古典では「コトバ」とは「言うことの端(言端)」という意味があったようで、口から発せられる一部のものという概念があるようです(赤坂典雄・新井卓・藤原辰史『言葉をもみほぐす』p.149)。藤原辰史先生は著書の中でこのような考えを根底にして、「平俗な地平に一枚一枚の葉のように降り積もり、虫や菌に食い荒らされて、豊饒な土地の一部となる(p.155)」と語っておられました。私たちは無力で「言」ではなく「言端」しか語りえません。しかし、そのような「葉」が降り積もり腐り新たな葉が繁るところに平和の芽を見つけたいと思うのです。
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