top of page

2022年9月4日説教要旨「農民の叫び声」

  • masuda4422020
  • 2022年9月3日
  • 読了時間: 2分

マルコによる福音書 12章1~12節 桝田翔希牧師


東京の山谷は寄せ場と呼ばれ、主に日雇いを求めて多くの労働者が集まります。一昔前は労働者の雇用に際して暴力団が手配師として仲介して、賃金のピンハネや抑圧などがされました。そのような背景がありながら、1980年頃の山谷では暴力団と労働者組織の衝突が起こり、刺殺される人まで出てしまいました。抗争は1年近く続き、金町戦と呼ばれています。平和と言われる日本で、ほんの40年前にこのような抗争が起こったということを知ったとき衝撃を受けました。単なる暴力ではなく、労働者の尊厳を取り戻す闘いでした。

マルコによる福音書12章では「ぶどう園と農夫のたとえ」が書かれています。良くされる解釈としては、「主人=神」としたもので、農夫に殺される「息子」はイエスです。この後十字架の上でイエスは殺されますので、そのことを予想させる物語でもあります。しかし「主人=神」という構図を外して考えると新たな視点に気づかされます。ここで農園を作る様子が書かれていますが、イザヤ書5章を引用した描写がされています(山口里子『イエスの譬え話1』2018年)。イザヤ書では耕すことから農園づくりが始まりますが、マルコは柵を張るところから始めます。なぜイザヤの言葉を変えたのでしょうか。山口里子さんは『イエスの譬え話1』でこの背景には、借金などの理由で耕作地を手放さざるを得ない労働者がいたのかもしれないと指摘しておられます。そして一方には大金を動かして輸出用のワイン農園を作ることができた人がいました。自分たちの食べるものは育てられず、雇人の利益のためのぶどうしか作れない。食べるものがない。そのような貧しさや抑圧がここにはあるのではないでしょうか。

暴力は赦されるものではありません。しかし、ガリラヤという土地で育ったイエスは「主人」と「農夫」のどちらに親近感を持つ人だったでしょうか。また暴力はいけないというだけで戦争が終わるものではないということを私たちはよく知っています。権力の中で暴力は正当化されていきますが、イエスがここで語ったこと、伝承の中で忘れられそうなことがあるのではないでしょうか。

 
 
 

最新記事

すべて表示
2025年6月1日 復活節第7主日礼拝説教要旨「ここにはいない」

ルカによる福音書24章44~53節 ペンテコステは、言語や民族の違いを超えてキリスト教が広まっていったという出来事ですが、イエスが生きた時代のイスラエルはローマに支配されており、誰が仲間で同じ民族なのかということは大きな問題でした。「民族・国民(ネーション)」の問題が大きくあったのです。現代に生きる私たちは急速なグローバル化の中にあって、社会の変化を身近に感じるようになりました。私たちは「民族・国

 
 
 
2025年5月25日 復活節第6主日礼拝説教要旨「イエスの祈り」

マタイによる福音書6章1~15節 先日行われた教区総会では、上程された議案がすべて可決されましたが、法定議案の他に可決された大きなものとして教区互助に関連した新たな教区負担金の算定基準が2026年度から行われるということが可決されました。なぜこのような議案が出されたのかというと、支えあうということが教区として寄り集まる中では生命線であるという理解をしたからです。私たちの尼崎教会は会衆派の教会であり

 
 
 
2025年5月18日 復活節第5主日礼拝説教要旨「神が行う業」

ヨハネによる福音書14章1~11節 以前、釜ヶ崎にあるシェルターと呼ばれる施設を見学しました。シェルターとは臨時夜間緊急避難所とよばれるもので、野宿を余儀なくされる人々の寝る場所を用意するということを大阪市からの付託事業として行われています。多い時で1,000人が1日で利用していたそうですが、今でも200人ほどの利用が1日であるのだそうです。釜ヶ崎では野宿する人が減ったと言われていますが、実際

 
 
 

コメント


  • Facebook

©2021 by 日本基督教団 尼崎教会

bottom of page