マルコによる福音書 12章1~12節 桝田翔希牧師
東京の山谷は寄せ場と呼ばれ、主に日雇いを求めて多くの労働者が集まります。一昔前は労働者の雇用に際して暴力団が手配師として仲介して、賃金のピンハネや抑圧などがされました。そのような背景がありながら、1980年頃の山谷では暴力団と労働者組織の衝突が起こり、刺殺される人まで出てしまいました。抗争は1年近く続き、金町戦と呼ばれています。平和と言われる日本で、ほんの40年前にこのような抗争が起こったということを知ったとき衝撃を受けました。単なる暴力ではなく、労働者の尊厳を取り戻す闘いでした。
マルコによる福音書12章では「ぶどう園と農夫のたとえ」が書かれています。良くされる解釈としては、「主人=神」としたもので、農夫に殺される「息子」はイエスです。この後十字架の上でイエスは殺されますので、そのことを予想させる物語でもあります。しかし「主人=神」という構図を外して考えると新たな視点に気づかされます。ここで農園を作る様子が書かれていますが、イザヤ書5章を引用した描写がされています(山口里子『イエスの譬え話1』2018年)。イザヤ書では耕すことから農園づくりが始まりますが、マルコは柵を張るところから始めます。なぜイザヤの言葉を変えたのでしょうか。山口里子さんは『イエスの譬え話1』でこの背景には、借金などの理由で耕作地を手放さざるを得ない労働者がいたのかもしれないと指摘しておられます。そして一方には大金を動かして輸出用のワイン農園を作ることができた人がいました。自分たちの食べるものは育てられず、雇人の利益のためのぶどうしか作れない。食べるものがない。そのような貧しさや抑圧がここにはあるのではないでしょうか。
暴力は赦されるものではありません。しかし、ガリラヤという土地で育ったイエスは「主人」と「農夫」のどちらに親近感を持つ人だったでしょうか。また暴力はいけないというだけで戦争が終わるものではないということを私たちはよく知っています。権力の中で暴力は正当化されていきますが、イエスがここで語ったこと、伝承の中で忘れられそうなことがあるのではないでしょうか。
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