マルコによる福音書 12章35~44節 桝田翔希牧師
今年の夏は非常に暑かったので、惜しまずに自動販売機でスポーツドリンクを買いました。子ども時代はお小遣いで生きていたので、150円や160円のジュースを買うのもかなり敷居が高かったですが、働き出すと感覚が変わりあまり躊躇せずに買うようになりました。160円という感覚がいとも簡単に変わってしまったなぁと思います。世界銀行は貧困ラインというものを設けており、1日1.90ドル以下で生活が送られている場合は貧困と判断するのだそうです。円安な状況ですが、1.9ドルというと200円ほどです。この金額で生活をしなくてはいけない状況があるわけですが、日本で200円あれば何が買えるでしょうか。何も考えずにジュースを買っている自分を反省するものです。
マルコによる福音書12章という場所は、14章から受難の物語が始まるので、イエスの宣教活動の締めくくりともいえる箇所で、編集上としては重要な部分ということになります。律法学者との論争のすぐ後にあって、この箇所は律法学者たちが言うことへの批判や対比が描かれています。そして、律法学者の言うようなメシア像は間違いである、ということがまず語られています。続けてイエスは、律法学者は正装を着て権威を示しながら、「やもめの家を食い物にしている」とも批判します。そして最後には、金持ちが見せびらかすように献金するそばで、経済的に貧しい人が2レプトンをささげるという描写がされます。
2レプトンとは一日の給料(デナリオン)の128分の1にあたる金額で、およそ160円くらいです。神殿を維持する為の献金と考えると、日本で160円というとジュースを買うぐらいの額ですから、私たちも注目しない金額かもしれません。しかし、イエスはこの人に注目されました。現代にあって世界を見るとき、160円ほどで一日の生活を送る人というのは少なくないと思います。一方で私たちは物質的に豊かな日本という場所で暮らしています。非対称的ないびつな社会の中に私たちは生きています。イエスが注目された2レプトンをついつい見落としてしまう私たちの生き方が問われているのではないでしょうか。
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