マルコによる福音書 9章33~41節 桝田翔希牧師
8月第1主日は【平和聖日】とされている日です。第二次世界大戦が終わってから77年の時を数えようとする今日にあっては、戦争で会堂が燃えたり、教会が戦争に協力するということはなかなか想像できるものではありません。しかし戦中にあっては多くの教会が、戦争による影響を受け、戦闘機を国に捧げるために寄付を募ったり、神社参拝も推奨されました。今考えると信じられないことですが、些細なところから気づかないうちに戦争に協力するようになってしまいました。
今朝の聖書箇所は、マルコによる福音書で弟子たちが「誰がいちばん偉いのか」ということを論じ合っている場面です。「途中で何を議論していたのか」とイエスに問われた弟子たちは黙り込んでしまいました。これは弟子たちも自分たちがそのような話をするのは、よくないことだとわかっていたということです。しかし繰り返し弟子たちは同じような議論をしてしまいました。「いちばんになる」ということは現代的な感覚で言えば、競争社会と言われる世の中ですので、当たり前の願望のように思えます。しかし、イエスは「いちばん後になりなさい」と答えられました。競争して一番になるということは、誰かを蹴落とすことに他なりません。誰がいちばんかという些細なやり取りこそが、イエスの教えに背く小さな一要素であるということなのではないでしょうか。
先日投票に行った時、大切なことだとは思っているのですが、自分の一票で政治に関わっているという実感がどうしても持てない気持ちになりました。しかし、社会を構成する最小の単位は他ならない「私」であり、イエスが指摘したような些細な一コマこそが、社会をつくるということなのだと思います。軍備増強を支持する声も最近はよく聞くようになりました。しかし、この時にあって戦争を止める力もなく無力と感じる私たち個人ですが、声を上げ続ける必要があるのだと思います。1827年に沖縄を訪れたイギリスの船の航海日誌には、「彼らは戦争になるより、持っているものをすべて投げ出してもいいと思っている(新城俊昭『日本復帰50年 今 昔 未来 沖縄のこと考えてみませんか!』2022年、p.146)」と記していたのだそうです。滞在時間はそんなに長いわけではなかったと思いますが、そのような印象を与えたのは琉球に「非武の文化」が浸透して実践されていたということだと思います。私たちのこの身から、そのような非武の考えが染み出すような生き方でありたいと思います。
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