マルコによる福音書 10章46~52節 桝田翔希牧師
ここ数年、公共スペースのベンチに「手すり」がつけられることが、多く見られるようになりました。座ってみるとどことなく窮屈のような気がするものではないでしょうか。一方では駅の中にスマホ充電用のコンセントが設けられたりと、時代の流れに施設も対応しており、便利になったと感じるものですが、手すりがつけられたベンチは誰が得をしているのでしょうか。「排除アート」という言葉があるそうで、街中で座ってほしくない場所がある場合、あからさまにガラス片を埋めておくということもできないので、デザインとして座りにくくしたり、寝転び辛くするということがされるのだそうです。手すりの付いたベンチについて検索すると、野宿者が寝れないようにするためであるという指摘が多く見られます。手すり付きのベンチは特に珍しくもない物ですが、排除が日常の風景と化しているという事実は怖い世の中だと思います。
マルコによる福音書10章46節からの部分では、目の見えなかったバルティマイという人が登場します。聖書はこの人が物乞いをしながら生きていたと記録しています。来る日も来る日もバルティマイは上着を道に広げて生活していました。街の人たちからすれば、道に座り込むバルティマイは日常の風景であったことでしょう。イエスが近くにいることを知ったバルティマイは、イエスに向かって助けてほしいと叫びます。しかし、群衆はその叫びを押し込めようとしました。前の箇所で弟子が子どもたちを妨げようとした情景と、群衆が重なります。バルティマイの苦しみはイエスに癒されるものではないと思われたのか、この人の苦しみは不可視化されようとしました。しかし、押し込められた声をイエスは聞き癒されたのでした。
野宿者支援の活動の中で「ここ数十年で野宿者の数が激減した」というようなことがよく言われます。実際に厚生省の統計では、この15年で8割の減少となっています。確かに私たちが生活の場面で感じる感覚としても、そう思うものではないでしょうか。しかし、8割の減少と言いつつ、逆に経済が8割良くなったかと言うとそうでもないと思います。ネットカフェ難民と言われる人たちが増えているということもあるようですが、街そのものが野宿者を排除する姿へと変わっているということが大きいと思います。私たちは今日を生きる中で、この物語の登場人物の誰に一番近い生き方をしているでしょうか。願うならばイエスのように、押し込められた声に聞き、癒しの業に加わりたいと思うものです。しかし、排除が不可しかされ当たり前にされる世の中を私たちは生きているということを思う時、バルティマイの叫びを押し込めようとした群衆の立場に立ってしまっているのかもしれません。
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