マルコによる福音書 10章13~16節 桝田翔希牧師
ネパールを訪れた時、赤ちゃんを抱いた女性から粉ミルクを買うためのお金が欲しいと頼まれたことがありました。大体、お金を渡せばそれで終わりですが、その女性は私を売店まで伴い、私の目の前で粉ミルクを買っておられました。物乞いの人に出会うということはよくあることでしたが、目の前で物を買うところまで一緒にいたという経験はあまりありません。今になって考えると、その女性がどのような境遇にあったのだろうと思います。生活が苦しく、旅行をしている若者に声をかけたということだったのでしょうか。大変な決断だったのではないかと思います。経済的な貧しさの中にある地域では、現在も子どもの死亡率が高く、その原因は栄養失調や下痢・肺炎、感染症が多いのだそうです。医療が整っていれば多くの場合は治る病です。ミルクを買うことができない現実は、栄養失調に陥る重い事柄だったのだと思います。
今回の聖書箇所は「子どもを祝福する」というタイトルの箇所です。しかし弟子たちは連れて来られた子どもたちを遮ろうとします。イエスはこれを見て「腹を立て」、妨げてはならないと言いながら、「子どものように神の国を受け入れる(15節)」ようにと薦められます。この箇所は文法的に「子どもを受け入れるように神の国を受け入れなさい(田川建三『新約聖書 訳と註 第一巻』2008年、p.332)」とも解釈できます。文脈的にもそう解釈したほうが自然です。弟子は子どもたちを受け入れることができませんでした。その理由は聖書に書かれていませんが、めんどくさかったのか、祝福を受ける必要が無いと思ったのでしょうか。
この場面を読むとき、私たちはどのような子どもをイメージしているでしょうか。走り回って無邪気で元気な無垢な子どもたち、そのように神の国を受け入れたいと理想の中でイメージしてしまいます。しかし、現代よりも衛生環境が悪かったであろう聖書の時代において、子どもは今よりもずっと病気にかかりやすい存在でした。聖書学者の山口里子さんは、ここに登場する子どもたちは「満足な食べ物が無く、栄養が不足して病気で衰弱した子どもたち。『手を当てて癒していただきたい』、『短い生命が終わる前にせめて祝福を与えていただきたい』、そんな切実な願いを持って子どもたちを抱いてきた人々の姿(山口里子『新しい聖書の学び』2019年、p.126)」という解釈もできるのではないかと書いておられました。13節にある「触れていただくため(ハプトマイ)」や「連れて来た(プロスフェロー)」という単語は治癒奇跡の場面でも使われる単語です。かくいう私も、改めてこの箇所を読んだ時、ネパールで出会った親子を想像することはありませんでした。私は何不自由なく食べていて、一方ではミルクが変えない状況があるのに、聖書を読んで思い出すこともできませんでした。「子どもを受け入れるように神の国を受け入れる」という言葉はどのような意味なのでしょうか。飢えや病気に苦しむ子どもたちを受け入れる、それは私たちが普通に想像する子どもの姿ではないかもしれません。しかし、そのような現実を受け入れよ、とイエスの言葉は私たちに問いかけているのではないでしょうか。
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