マルコによる福音書 9章42~50節 桝田翔希牧師
海外では「シエスタ」というものがあり、昼寝をする時間がある国があるのだそうです。このところ日中はとても暑いので、昼寝でもしたほうが効率がいいのではないかと思う時があります。しかし、日本で昼寝の時間というのはなかなかなじまないだろうとも思います。しかし、今日にあって私たちは日本で暮らしていて週に1日休むのは当たり前と思っていますが、明治に入るまで年間の休みは平均して30日程しか休みが無かったのだそうです。欧米に合わせるために日曜休みが導入されたのだそうです。時代や地域が違えば生活のあり方が大きく異なるということは、よくあることです。旧約聖書には生活に関する規定が多く書かれていますが、「隣人を愛せよ」のように私たちもすんなり受け入れることができる言葉がある一方で、受け入れがたい規律もあります。混紡の服を着てはいけなかったり、豚やイカを食べることは許されていません。旧約聖書を読みつつ、私たちは自分に都合のよい部分しか読んでいないのかもしれません。
マルコによる福音書9章42節からの部分では、イエスによる厳しい言葉が続いています。大きな石臼につながれて溺れてしまうとか、手足を切り落としてしまえ、とグロテスクな描写が続きます。この場面はおそらくカファルナウムのシモンの家での出来事のようですが、弟子たちに対して互いに平和に過ごすようにということが書かれています。しかし、このようなグロテスクな言葉はついつい読み飛ばしたくなってしまいます。目や手足を切り落とす理由は誘惑に陥ってしまうということです。これは誰か他人に責任があるのではなく、誘惑の原因は自分自身に他ならないということなのではないでしょうか。
聖書は様々な場面で人を支えます。人を活かす力になる一方で、聖書を根拠として戦争がされる時がありますし、兵士が十分に戦えるようにと励ましに用いられる時があります。読み方によって聖書は大きく変わってしまいます。聖書には二面性があり、神の言葉は真実でもそれを読む人間の解釈は様々です。聖書を都合よく読むのではなく、「切り落とす原因」を作るのは他でもない私たち自身であるということに向き合う者でありたいと思います。つまずきの原因は他でもない私たちにもあるのです。
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