マルコによる福音書 6章1~13節 桝田翔希牧師
学生時代にワークキャンプでネパールを訪れた時、40年ほど前に自分たちの団体が作ったトイレや道路を見ることがありました。現在では政府によってトイレの普及がされており、私たちがトイレを作るということはなかったのですが、何か形に残るものを作りたいという思いがありました。しかし、神学部で勉強をしていた私は、建築の技術や衛生の知識もなく自らの無力さを知りました。また、形に残るものを作りたいという思いそのものも、とても独りよがりなものであったと反省しています。しかし、どこかの土地に自分の功績を残したいという思いは、よく持たれるものではないかと思います。
イエスは宣教の旅の途中に、自らが生まれ育った村を訪れました。弟子と一緒に訪れており、これは単に故郷で休息するということではなく、宣教が第一の目的でありました。しかし、村の人たちはイエスを小さいころから知っていたということと、職人から指導者は出てこないという偏見からイエスの言葉に聞こうとはできませんでした。そしてこの後で、イエスは弟子たちを派遣するという記事が続きます。ここでは、赴いた土地で受け入れられなかったら早く出ていくようにということが書かれています。
私たちは、うまくいかないと思っても引き際をなくしてしまったり、去るという決断ができない時があります。むしろ、何か成果や評価されることに固執してしまうことが多いのではないでしょうか。時には失敗もあり、それらをひっくるめて生きていくしかないのだと思います。イエスにとってみれば、故郷での宣教失敗は「汚点・失敗」ということだと思いますが、それでもこの出来事を聖書は記録しました。このことを教会と照らし合わせて考えてみるとどうでしょうか。「教会は能力中心の資本主義社会では」なくよい部分だけを「純粋培養した教会がどれだけ増したところで、神の国ができるわけでもない(清水恵三『辺境の教会』1978年、p.74)」のだと思います。悪い部分を排除するのではなく、むしろ「負い合うことの中でのみ教会の歩みはあ(同上)」るのではないでしょうか。そのような現実の中から私たちは語る者として派遣されているのです。
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