top of page
masuda4422020

2022年7月31日説教要旨「ひきさかれた」

マルコによる福音書 9章14~29節 桝田翔希牧師


私たちは生きている中で、「揉め事」と呼ばれることに遭遇することがあります。若輩者ながら今まで経験した揉め事のことを思い返しますと、ああしておけばよかったとか、今ならばもう少しうまく解決できるかもしれない、と後悔することもあります。揉め事が起こると、どうしても敵と味方に分かれてしまい、自分たちを守ってしまうということになります。これは逆を言えば、相手を徹底的に攻撃してしまうということです。本日の聖書箇所では律法学者とイエスの弟子がもめているという場面から始まっています。

弟子たちはマルコによる福音書3章で、イエスから「悪霊を追い出す権限」が与えられていました。にもかかわらず、息子の病に長年悩む親子を前にして病を癒すことはできず、律法学者とこのことについて言い争いになってしまいました。弟子の無力さは即ち、師(イエスの)の無力さということになりますので、この言い争いは弟子からすれば面子を保つために負けるわけにはいきませんでした。しかし、困った親子はほったらかしになってしまいました。やってきたイエスに対してこの父親は「できれば」治してほしいと、落胆を顕わにします。これまで息子の病を治すために色々な挑戦をしたのかもしれません。しかし、そのすべてに効果がなく途方に暮れてしまっています。この人をイエスは癒されました。なぜ弟子たちは癒すことができなかったのか、イエスは「祈りによってでしか追い出すことはできない」と教えられました。すなわち弟子には何かが足りなかったのです。

ドキュメンタリー映画の監督で佐藤真という方が、「テーマ主義のドキュメンタリー映画に対する批判(『病と障害と、傍らにあった本。』2020年、和島香太朗「てんかんと、ありきたりな日常」)」として、「ひとは社会問題やテーマのために生きているのではない。いかに社会的テーマをかかえていようと、人の日常は平凡でありきたりなものだ。逆に、社会問題やテーマに合致する特別なところだけを、普通の暮らしの中からピックアップすることによってはじめて、社会問題が問題たりえるのだ(佐藤真『日常という名の鏡』1997年)」と書いておられました。弟子たちはこの親子をイエスの偉大さを証明するという「テーマ」でしか見ることはできず、日常的な苦しみや平凡な生活に向き合おうともせず、「出会い」がありませんでした。大切で当たり前のことのはずなのに、生身の人間を忘れて議論に集中してしまいました。そのようなあり方は私たちもよくしてしまいます。議論の中で何か大切なことを忘れてしまうということは、よくあることではないでしょうか。イエスの呼びかけはそんな思い込みを引き裂かれるのです。私たちにとって、忘れてしまっている祈りとは何を指しているのでしょうか。

閲覧数:17回0件のコメント

最新記事

すべて表示

2024年11月17日説教要旨「幸いである」

マタイによる福音書 5章3~8節 桝田翔希牧師 先日、能登半島地震・水害のボランティアに行きました。大きな震災から9か月後に水害が起こり、復興に向けて「がんばろう」と外に住む私たちはとても言えないような状況だと思います。よく神の導きを祈りながら、何とか自分たちや知り合いの人...

2024年11月10日説教要旨「マムシの子」

マタイによる福音書 3章7~12節 桝田翔希牧師 日本基督教団は英語で表記すると「The United Church of Christ in Japan」となります。この「ユナイテッド」という単語は「結ばれた、連合した」という意味の言葉ですが、ここには、誰によって結ばれた...

2024年10月20日説教要旨「イエスの祈り」

ヨハネによる福音書 17章13~26節 桝田翔希牧師 10月17日で尼崎教会は1896年の創立から128年を数えました。この間、多くの方々が尼崎教会に連なり、そして祈りの中であってこそ、128年を数えることができました。この128年を振り返る時、戦災や震災など多くの出来事が...

Comments


bottom of page