マルコによる福音書 9章14~29節 桝田翔希牧師
私たちは生きている中で、「揉め事」と呼ばれることに遭遇することがあります。若輩者ながら今まで経験した揉め事のことを思い返しますと、ああしておけばよかったとか、今ならばもう少しうまく解決できるかもしれない、と後悔することもあります。揉め事が起こると、どうしても敵と味方に分かれてしまい、自分たちを守ってしまうということになります。これは逆を言えば、相手を徹底的に攻撃してしまうということです。本日の聖書箇所では律法学者とイエスの弟子がもめているという場面から始まっています。
弟子たちはマルコによる福音書3章で、イエスから「悪霊を追い出す権限」が与えられていました。にもかかわらず、息子の病に長年悩む親子を前にして病を癒すことはできず、律法学者とこのことについて言い争いになってしまいました。弟子の無力さは即ち、師(イエスの)の無力さということになりますので、この言い争いは弟子からすれば面子を保つために負けるわけにはいきませんでした。しかし、困った親子はほったらかしになってしまいました。やってきたイエスに対してこの父親は「できれば」治してほしいと、落胆を顕わにします。これまで息子の病を治すために色々な挑戦をしたのかもしれません。しかし、そのすべてに効果がなく途方に暮れてしまっています。この人をイエスは癒されました。なぜ弟子たちは癒すことができなかったのか、イエスは「祈りによってでしか追い出すことはできない」と教えられました。すなわち弟子には何かが足りなかったのです。
ドキュメンタリー映画の監督で佐藤真という方が、「テーマ主義のドキュメンタリー映画に対する批判(『病と障害と、傍らにあった本。』2020年、和島香太朗「てんかんと、ありきたりな日常」)」として、「ひとは社会問題やテーマのために生きているのではない。いかに社会的テーマをかかえていようと、人の日常は平凡でありきたりなものだ。逆に、社会問題やテーマに合致する特別なところだけを、普通の暮らしの中からピックアップすることによってはじめて、社会問題が問題たりえるのだ(佐藤真『日常という名の鏡』1997年)」と書いておられました。弟子たちはこの親子をイエスの偉大さを証明するという「テーマ」でしか見ることはできず、日常的な苦しみや平凡な生活に向き合おうともせず、「出会い」がありませんでした。大切で当たり前のことのはずなのに、生身の人間を忘れて議論に集中してしまいました。そのようなあり方は私たちもよくしてしまいます。議論の中で何か大切なことを忘れてしまうということは、よくあることではないでしょうか。イエスの呼びかけはそんな思い込みを引き裂かれるのです。私たちにとって、忘れてしまっている祈りとは何を指しているのでしょうか。
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