マルコによる福音書 8章22~26節 桝田翔希牧師
時々、思い立ってパソコンの入力のタイピング練習をするときがあります。タイピング練習サイトには「生まれながらにしてタイピングができる人はいないので頑張って練習しましょう」ということが書いてありました。うまい人がタイピングしているところを見ると、簡単そうに見えますが、努力の成果なのだと思います。私はすべての指をまんべんなく使う基本の形から外れてしまった変な癖がついていて、両手の内5本くらいの指しか使っていません。何とか努力してタイピングの精度を上げたいと思っています。
病を癒すイエスの姿は福音書で何度も書かれていますが、目の見えない人を二段階の業で癒すという今回の物語は、マルコによる福音書にしか書かれていない物語です。マタイによる福音書とルカによる福音書は、マルコによる福音書を参考にしながら書かれたと言われていますが、なぜほかの福音書はこの物語を記録しなかったのでしょうか。一つの仮定ですが、偉大な力を持つイエスが二段階の癒しをするということが理解できなかったのかもしれません。二段階で癒しがされるということは、この行為がそれほど難しいものであったという意味でもあります。イエスが行う奇跡を福音書は割と簡潔に書いているような気がします。ある部分では感情を顕わにされることもありますが、実際の様子が文章で記録される時、そこにはどうしても開きが出てきます。多くの奇跡物語は非常にスマートに書かれていて、十字架の上でイエスが苦闘する姿とは対照的な印象を受けるものではないでしょうか。
ヨハネによる福音書で、目の見えない人が癒される奇跡にあって、「この人の目が見えないのは両親のせいか」と弟子に問われたイエスは、違うと答えて「神の業がこの人に現れるためである(ヨハネ9:3)」と言われました。誰か近しい人が病で苦しむとき、「神の業がこの人に現れるためである」と私たちが言うことができるでしょうか。これだけ言っても、苦しむ人を更に苦しませることになりかねません。その人のことを考えながら、会話のやり取りをしながらやっと力添えになるような言葉を絞り出すことができるのではないでしょうか。イエスが行う治癒奇跡は、文章だけ読むと非常にあっさりしていていとも簡単にされているような印象を受けます。しかし、治癒奇跡にあっても、イエスが十字架の上で見せられた姿のような悶え悩んでやっと絞り出される癒しがあったのではないでしょうか。私たちは簡単に他者を癒すことはできません。悩むときもありますが、おそらくイエスも同じように悩まれて一生懸命に誰かと向き合われたのではないかと思います。
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