マルコによる福音書 8章14~21節 桝田翔希牧師
中学時代、英語がわからずに苦労して成績も散々だったので、中三の夏に塾に通うことになりました。そこではじめて、英語には「be動詞」や「文法」というものがあることを理解しました。英語の基礎的なことがわかっていなかったので、成績がよくないのは当然で基礎的なことの大切さを実感しました。基礎的なことや初歩的なことは、全体から見れば小さなことですが、それが全体に影響する部分ということなのだと思います。
本日の聖書箇所では「パン種」が話題に上っていますが、この前の部分を読んでみますと、5000人(6章30節~)や4000人(8章1節~)の人がいくつかのパンと少ない魚で満足するという物語があり、「パン」というものについて注目され続けている流れがある箇所と言えます。しかし、一連の流れの中で弟子たちはイエスがどのような意味でパンを用いておられるのかということはわからなかったということが聖書には書かれています。実際この箇所でも、弟子たちはパンをただこの世的な空腹を満たすものとしかとらえていません。ですので「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい(15節)」との言葉は理解できるものではありませんでした。当時のパン作りは現代のようにドライイーストや冷蔵庫があるわけではありませんでしたので、パン生地の一部を残しておくという方法でした。ですので時にはパン種が腐ってしまい、パン全体が駄目になってしまうこともありました。ここで「ファリサイ派」は宗教的支配、「ヘロデ」は政治・権力的支配を意味し、そのような支配がやがて気づかないうちに私たちを支配するということが言われているのではないでしょうか。
しかし、弟子たちはこの世の尺度でしかパン種を理解できませんでした。私たちも弟子たちと同じように簡単な所で思い違いをしていたり、考える枠組みを間違っている時があるのかもしれません。キリスト教という文脈の中で、私たちは「愛」や「三位一体」という言葉をもってして物事を理解しようとします。しかし私たちはあまりにも知らないことが多く、「立派な方策や理論の問題ではなく、『愛』などという言葉を用いる段階のものでなく、素朴な『人権』の問題(清水恵三『辺境の教会』1978年、p.98)」という段階にいるのかもしれません。イエスの枠組みを弟子たちはなかなか理解できませんでした。私たちは、どのような枠組みでイエスの言葉を聞いているのでしょうか。
Comments