マルコによる福音書 5章1~20節 桝田翔希牧師
日に日に医学は進歩していますが、多くの病気がすっきりと治るようになりました。コロナが流行し始めた時も、そのうち薬が開発されるだろうという雰囲気があったと思います。しかし、コロナの特効薬はいまだに開発されず、他の様々な病気に関しても不治の病と呼ばれるものは多く存在します。私も大学院生の頃、肺炎にかかったことがあったのですが発見が遅れたこともありなかなか治らず、熱が引くまでにほぼ1か月かかったことがありました。体調不良が続き、医師からも安静にしていれば治ると言われていましたが、このまま治らないのではないかという何とも言えない不安に襲われました。イエスが治癒奇跡を行うように、すぐにすっきりと病気が治ってほしいと思うこともあります。
ゲラサ人の土地を訪れたイエスは、墓場につながれた男性に癒しの奇跡を行われました。ゲラサ人の土地とは、ユダヤ教では宗教的に食べることのない豚が多く飼われていたということからも、この土地がユダヤ教から見れば異教の土地ということであります。イエスは悪霊を豚に移して一人の男性を癒されました。しかし、豚飼いからすれば大損害で2,000頭の豚が死んでしまっていますが、現代の価値に換算すれば1億2,000万円相当の損害となります。豚飼いたちからすれば、癒された男性にひがみを覚えたかもしれません。墓場につながれたこの男性を必要以上にいじめた人たちもこの村にはいたでしょう。また、この男性を追い出した家族は、本当の意味で男性を受け入れることができたのでしょうか。現代でも、病がなおったとはいえ差別されるということがよく起こります。イエスについていきたいと願う男性でしたが、「自分の家に帰りなさい(19節)」とイエスは答えられました。居心地の悪い村や家に、どうしてこの男性はとどまらなくてはいけなかったのでしょうか。
イエスを救い主と告白する時、私たちは「救い主(メシア)」という言葉をどのように解釈しているでしょうか。アルトハウス=リードは、「対話的メシアニズム」という考えに基づいて「進行中のメシア(messiah in process)」という言葉を用い、「このキリスト論は対話の中で絶えることなく語り直されていくので、最終的なメシア像が提示されることはない(工藤万里江『クィア神学の挑戦 クィア、フェミニズム、キリスト教』2022年、p.191)」と説明されました。また「対話の中で作り上げられていくこのキリスト論が探し求めるのは、個人的な救いではなく、常に共同体的な救い(同上)」なのだそうです。イエスの癒しは個人的なものではなく、共同体に及ぶものであり、その延長線上に私たちも生きているのです。癒された男性はこの地に留まり宣教をしました。ここにと留まり対話をすること、これが宣教の初めの部分なのではないでしょうか。
Comments