マルコによる福音書 1章9~11節 桝田翔希牧師
ペンテコステの翌週、三位一体主日を迎えることができました。加えて、【子どもの日・花の日】でもあり、尼崎教会ではみどり野保育園の創立記念も覚えようとしています。みどり野保育園が創立されてから、43年の時が経ちましたが、地域にあって多くの子どもたちが集いキリスト教主義の中でなされてきた宣教の業を覚えつつ、コロナ禍にあっても子どもたちが生き生きと過ごすことができますように共に祈りましょう。社会には認知される課題(視覚化された課題)がある一方で、あまり認知されない問題も多くあります。話は少しそれますが、私が生まれ育った滋賀県には、日本で唯一の「人が住む淡水湖にある島」があったのですが、行事でその島を訪れるまで琵琶湖の中で人が暮らしているとは想像すらしたことがありませんでした。世界各地に色々な場所で人が住んでいるということを感じました。
マルコによる福音書1章は、この書物の「序」にあたる部分と言えます。イエスに先駆けて、「洗礼者ヨハネ」はイスラエル全体に悔い改めを呼び掛け、それに続いてイエスは新しい悔い改め運動を展開しています。「悔い改め」は福音を信じる前段階としてイエスは呼びかけました。そしてこの活動は、ヨハネはイスラエル全土(エルサレム中心?)でしたが、イエスは有名でも何でもなかったガリラヤで活動を展開されました。「悔い改める」と日本語で言うと、非常に重い表現のように感じられるものではないでしょうか。信仰ということを抜きに考えますと、悔いることや後悔することは人生の中でいくらでもあります。しかしイエスが語った「悔い改め」とはどのようなことだったのでしょうか。
「悔い改め」という言葉はギリシャ語で「メタノイア」とされており、「メタ」は「変える・移す・超える」という意味があり、「ノイア」は心の動きを表し筋道などの意味があり、「視座を移す(本田哲郎『聖書を発見する』2010年、p.29)」という意味がある言葉なのだそうです。どこに視座を移すのかというと、メタノイアに対応するヘブライ語のニッハムは「痛み、苦しみを共感・共有する」のように用いられることがあります。すなわちイエスが呼び掛けた「悔い改め」とは痛みや苦しみからの問い直しということでした。現代では様々な課題が可視化されています。しかし、一方で私たちが気づいていない問題も多くあることでしょう。ただ、自分たちが気づいた部分に視座を移すということが、イエスの呼びかけたメタノイアなのでしょうか。ガリラヤで掻き消されようとした声を聴こうとされたイエスの姿に従うものでありたいと思うのです。
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