ヨハネによる福音書 13章31~35節 桝田翔希牧師
今年のゴールデンウィークもコロナ禍のものとなりましたが、ここ数年と比べると外出も多いものとなりました。コロナ禍にあって会食の機会は大幅に減りました。教会では、これまで「共に食事をする」ということが大切にされてきたと思います。また単なる食事ではありませんが、聖餐式も感染対策として行えない期間が続いています。コロナ禍の前から日本の社会は「無縁社会」と呼ばれ、関係性の希薄化が問題視されていました。外に出ないことが良しとされるコロナ禍にあっては、無縁社会という指摘はあまり聞かないものになりましたが、ますます深刻な状況なのではないでしょうか。
本日の聖書箇所はヨハネによる福音書で最後の晩餐のシーンです。イエスの十字架や復活の場面からはすこし遡りますが、一同が介して食事をしている場面です。この時期はユダヤ教の大きなお祭りである「過越祭」の季節でしたので、喜ばしい雰囲気に包まれた食事であったことでしょう。しかし一方ではイエスの受難を控え、「決定的な別離」がイエスにより言い渡されるのです。悲しいけれどずっと一緒に入ることが出来ない、来年の過越祭の食事も共にできないイエスから、「互いに愛し合いなさい」と命じられるのです。「愛」とは喜ばしい感情であり、暖かなものを想像します。しかしこれからの弟子たちの運命は迫害や苦しみがあり、決して生易しいものではありませんでした。ここで語られる「愛」とは、暖かなこと・楽しいことだけではなく、キリスト者であるが故の苦しみや苦難をも予期させているのではないでしょうか。
食事を共にするということについて、コロナ前の文章ですが農業史が専門の藤原辰史という先生が「家族のかたち」について書いておられるものがありました。そこでは配偶者を亡くし男一人で三人の子どもを育てるという境遇がつづられた『シングル父さん子育て奮闘記』が引き合いに出されていました。ここでは配偶者の方にがん宣告がされ12日後に亡くなられたのだそうですが、入院中のメールのやり取りは「食事」のことが多かったのだそうです。子どもたちは何を食べたのか、そのような心配のメールだったのだそうです。ここで「家族とは、いっしょにご飯を食べる共同体、という定義だけでは不十分であることがわかる(「ちいさい・おおきい・よわい・つよい No.123」2019年、藤原辰史“リレーエッセイ 家族のかたち 第8回 シングルファザーの子育てが教えてくれること”p.p.147-151)」と考察されていました。家族とは共に食べるということだけではなく、ちゃんと食べられているのか、なぜ食べれていないのか、そのようなことを心配する「不安を共にする共同体(同上)」でもあると書いておられました。私たちの教会も食事をはじめ暖かな交わりの多くが行えない状況にあります。しかし、教会という共同体は楽しいことだけを共有する共同体ではなかったと思うのです。イエスが受難を前に予告した離別は、教会は不安も共にする共同体であることが証されているのではないでしょうか。
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